3.16(水)
一昨日仕上げたつもりの原稿、分析対象サンプルの抽出のやり方にちょっとしたミスがあることが発覚。基本的傾向に大きな変化はないので文章(考察部分)の修正は少ないのだが、集計作業と図表の作成は全部やり直し。明け方近くまでかかる。フゥ~。
3.17(木)
午後2時から全国家族調査(NFRJ-S01)の第二次報告書の検討会。出席者は7名。ほとんど休みなく各原稿の報告と質疑応答が行われ、終了したのは午後7時半。いや、お疲れ様である。今日の検討を踏まえて、修正原稿の締切は3月31日ということになった。メンバーが帰った後、会合の終わるのをずっと待っていてくれた学生の面談。就活と卒論の話を研究室で1時間半ほど。10時、帰宅。腹ぺこでカレーライスのお代わりをした。しかも、2回。これでは体重が落ちないわけです。
3.18(金)
午前中、鶯谷の泰寿院にお彼岸の墓参り。午後、研究室で調査実習の報告書の原稿(5つの班から提出された原稿)の校正作業。A4用紙打ち出し165枚。今日中に終わる予定であったが、一つの班のファイルに不具合があり、開くことも修正することもできるのだが、修正したものを保存したり印字したりができない。パソコンを替えてやってみても結果は同じ。ファイルを作成した学生に電話をして確かめたところ、彼のパソコンの中のファイルも同じ不具合があることがわかった。どうやらファイルを開いて作業をしているときにフリーズしてしまい、強制的に終了した際にファイルの一部が壊れたらしい。ファイルを作成する一段階前の複数のファイルに立ち戻って、もう一度ファイルを作り成してもらうことになった。このところ校正作業にずっとつき合ってもらっているIさんと大学を出たのは、午後10時半(閉門時間)を回った頃だった。夜風が身にしみる。
3.19(土)
午後、大学で会合が2つ。会合の合間に生協文学部店をのぞくと、新学期を控えて、各科目の教科書がうずたかく積まれている。私が二文の基礎演習の教科書に指定したギデンズ『社会学』(第4版)も十数冊平積みになっていた。あの分厚い本(4.5センチ)がそれだけ積まれているとなかなか壮観だ。石柱のようでもあり、道標のようでもある。授業のたびにこの分厚い本を鞄に入れて持ってくるというのは、けっこう大変かもしれない。いや、私は書斎と研究室に一冊ずつ置いてあるからいいんですけどね。でも、その大変さ、その重さが、「よ~し、勉強するぞ」という気持を高めてくれるのではないだろうか。これ、楽観的でしょうかね。もしかしたら、その分厚さと3600円という値段に恐れをなして(私からすれば厚さの割に安いと感じるのだが、新入生はそうは思うまい)、履修者が例年より減るかもしれない。そのときはそのときで、少人数の演習らしい演習になるから決して悪くはない。初回の授業で全員の名前を覚えられる規模というのが演習には最適なのだ。具体的にそれは何人くらいかというと、私の場合、10~15人くらいでしょうか。授業の最初に全員に自己紹介をしてもらって、これからの授業の進め方なんかについて話をして、時間が来たら、「では、また来週。○○君、△△さん、××君・・・・」と一人一人の学生の顔を見ながら(名簿を見ることなく)言えたら、相当にかっこいいんじゃないかと、密かに思っているわけです。
3.20(日)
ホームページの「講義記録」の更新。昨年度分を削除し、新年度の時間割を掲載する。(1)授業は木・金・土の週3日。これに各種の会議(火)が加わって、大学に来るのは原則として週4日である。念のために言っておくと、これは週休3日ということではない。世間からはよく誤解され、あろうことか家族からもよく誤解されるのだが、「自宅にいる日=休日」ではないのである。妻から「明日はお休み?」と聞かれる度に、私は「大学へは行かないが、お休みではない」と答え、妻の啓蒙に努めている。(2)担当科目数は前期が7、後期が8。これ、私が1994年に早稲田大学に来てから最多である。ただし、放送大学から早稲田大学に移籍したその年は、放送大学の面接授業や他大学の非常勤を引きずっていたので、週の担当科目が10(早稲田大学では5)もあった。人間は苦しいとき、過去のもっと苦しかった時期を思い出し、「あのときの苦しさに比べれば、いまは・・・・」と自分を慰め、励ます動物である。回想的=物語的動物なのである。私もそうしようと思うが、当時と現在の年齢を考慮に入れると、40歳のときの10科目と51歳のときの8科目は負荷量にあまり違いはないのではなかろうかという気もする。せめて授業期間中の忙しさを少しでも緩和するため、いまのうちに前期の授業の準備(講義ノートや教材の作成)をできるだけやっておこう。なんて殊勝な心がけだろう。「春休み=休暇」ではないのである。
3.21(月)
あたたかなよい天気の一日だったが、昨日に続いて今日も一歩も外に出なかった。別に風邪気味というわけではない。先週、大学に出る日が多かったので、その反動であろう。二日分の無精髭を見て妻曰く、「解放された韋駄天の船長さんみたい」。ギデンズ『社会学』の読書会の下調べ。第8章「犯罪と逸脱」。訳書で43頁あり、これまでで一番長く(二段組みなので普通の新書の半分の量はある)、関連事項をインターネットで調べながら読んでいたら(これはやりだすと切りがない)、半日かかった。しかし、なかなか興味深い内容だった。社会学の基本問題の1つに秩序問題というのがある。「秩序はなぜ成り立つのか」=「人々はなぜ規範的に行為するのか」という問題である。犯罪や逸脱を扱うということは、この秩序問題に反対の側からアプローチするということである。社会の成員は逸脱者と同調者に二分されるわけではない。われわれはみんな多かれ少なかれ、日常生活の中で、多少の逸脱的行為はしているはずである。ただ、その逸脱的行為が他者の目にふれないでいるため、あるいは逸脱の程度が甚だしくはないため、逸脱者(犯罪者や変質者や危険人物)扱いされずにすんでいるだけの話である。われわれの日常生活は微妙なバランスの上にかろうじて成り立っているのだ。大部分の人間が犯罪を起こさないのは、犯罪を起こした場合に自分や自分の身内が社会からどのように扱われるのかを知っているからであろう。なぜそれを知っているのかといえば、類似の実例をたくさん見聞してきているからである。予想される事態が逸脱の抑制要因として働いているのだ。たとえば、私が今日一歩も外へ出なかったのは、読書の時間を減らしたくないこともあったが、髭を剃るのが面倒だったからもある。無精髭のままで本屋やコンビニに入っていくと、店員から「招かれざる客」を見るような目で見られるのである。少なくともそういう気がするのである。それは自意識過剰だと人は言うかもしれない。しかし、自意識というものは、本来、過剰なものなのである。過剰な自意識、言い換えれば、他者からよく見られたいという気持があるから、大部分の人間は犯罪者の烙印を押されずに一生を終わるのである。では、一部の人間が犯罪を起こしてしまうのはなぜか。ギデンズは、機能主義理論、相互行為理論、葛藤理論、統制理論という社会学の4つの理論からの説明を比較検討している。社会学に関心のある人は、一読されるとよい。社会学的思考の醍醐味を味わうことができるはずだ。
3.22(火)
正午から社会・人間系専修の会議。それが終わって、その足で453教室の社会学専修の科目登録ガイダンスへ。調査実習(社会学演習ⅢABCD)の説明。私はDクラスの担当なので4番目に話をするのだと思いこんでいたら、あいうえお順ということで最初に話をさせられる。一人の持ち時間が何分なのかわからないまま、キーワードである「人生の物語」の説明を中心に話をして席に戻ったが、後から他の先生方に、「大久保先生、話が長いです」「講義が始まったのかと思いました」と言われる。えっ、そうだった? 10分くらいしか話してないんじゃないかな。しかし、そう言われてみると、私の後の先生方はみんな3分くらいで話を終えていたような気がしないでもない。今日は夕方から社会学専修の教員懇親会があるので、それまでの時間を生協で買ったばかりの山下清美ほか『ウェブログの心理学』(NTT出版、2005)を読んで過ごす。懇親会は馬場下の交差点からちょっと高田馬場方面へ歩いたところにある「葉歩花亭」(はぶかてい)で。ここは「門波」(もなみ)という名前のイタリアンレストランがあった場所で、一時は毎週のように来ていたのだが、しばらく前に店仕舞いをしてしまった。「葉歩花亭」は和風ビストロとでもいった感じの店で、入るのは今日が初めて。鰹のタタキのマリネが美味しかった。懇親会は9時頃にお開きになり、それから長谷先生と助手の方は大学へ戻って2年生と3年生の演習の振り分け作業をするというので、私もつき合う。大学を出たのは10時半ごろ。あゆみブックスで、小谷野敦『恋愛の昭和史』(文藝春秋)、『文學界』4月号、『小説現代』4月号を購入。
3.23(水)
雨の中、傘を差して、「やぶ久」に昼食を食べに出る。いつものようにすき焼きうどん。サービスでついてくる温泉たまごをぐつぐつの鍋の中に入れる。もともと鍋の中にはたまごが1個入っているので、たまご2つというのは贅沢というか、高カロリーが心配なのだが、関東風の濃い汁で煮込んだうどんにトロリとしたたまごの黄身がからまると実に旨いのだ。ラオックスで注文しておいたプリンターのトナーを受け取り、キシフォートでカラーフィルムを3本購入し、栄松堂書店で新書の新刊を6冊と文芸雑誌を2冊購入。
『文學界』4月号の「村上春樹ロングインタビュー」を読む。主として『アフターダーク』をめぐっての話だったが、『新潮』3月号で始まった短篇連作『東京奇譚集』のことも話題にされていて、そこで彼が短編小説作法みたいなことを話しているのが興味深かった。
・・・集中して短篇小説を書こうとする場合、書く前にポイントを二十くらいつくって用意しておきます。・・・・何でもいいんです。なるべく意味のないことがいい。たとえば、そうだな、「サルと将棋を指す」とか「靴が脱げて地下鉄に乗り遅れる」とか「五時のあとに三時が来る」とか(笑)。そうやって脈絡なく頭に浮かんがことを二十ほど書き留めておくんです。リストにしておく、それで短篇を五本書くとしたら、そこにある二十の項目の中から三つを取り出し、それを組み合わせて一つの話をつくります。そうすると五本分で十五項目を使うわけですね。そして残った五つは、使わなかったものとして捨てるわけ。不思議だけど、こうやると短篇小説ってわりにすらすら書けてしまいます。いつも多かれ少なかれそういうやり方で短篇を書くんですが、今回はとくに意識的に、そういうシステムをきっちりつくって作業を進めました。・・・・三題噺ってありますね、原理としてはあれに近いかもしれない。僕の場合は誰かから与えられるんじゃくなくて、自分の中から自発的に、潜在的に出ていたものなので、そこは根本的に違いますけど。・・・・そういう一見して脈絡のないランドマークみたいなものを、ところどころにポッと浮かべて話を書いていくというのが、自分でもすごく刺激的で、おもしろいんです。自分の中で浮かび上がってきたブイは、それだけ内的な必然性があるわけだから、結果的にすべては自然におさまっていくというか、そのブイの存在によって話がどんどんインスパイアされていく。ものごとの連続性が明らかになっていく。今回はとくにそういう書き方をしたんです。読んでいる人はたぶんどれがブイなのか、わからないと思いますけれど。なにしろ脈絡みたいなものがないから。枚数もきっちり決めてやっていて、六十枚と決めたら、ぴったりそのとおりに書きます。
私は彼の短編小説のファンである。もちろん、中編小説も長編小説も全部読んでいるのだが、折に触れて読み返すのは短編小説だ。『中国行きのスロウ・ボート』や『回転木馬のデッドヒート』、最近では『神の子どもたちはみな踊る』、どれも味わい深い短篇小説集だ。それらはこんなふうにして作られていたのか。知らなかったなぁ。実をいうと、私が90分の講義を組み立てるとき(一応、事前にプロットを書いたメモを作成する)、たぶんこれと同じ方法論でやっているのである。つまりあるテーマについて話をする場合、ポイントとなるような話題、素材、データ(これらはふだんから収集している)を書き出して、その中から3つくらいをピックアップする。これは多すぎてもいけないし(話が散漫になる)、少なすぎてもいけない(話が単調になる)。90分の講義であれば、3つくらいが最適であることが経験的にわかっている。次に、その3つほどのポイントをどうつなげて(どういう順序で、どういう論理で、どういう時間配分で)話を展開するかを考える。最後に、話がスラスラ進みすぎて、時間が余ってしまった場合の予備の話と、反対に思ったより話の展開に時間がかかり、そのままだと時間内に結末に辿り着きそうにない場合の割愛箇所をチェックしておく。そうやって授業に臨むのである。・・・・そうか、90分の講義というのは短編作品で、半期の講義というのは十数回の短篇連作みたいなものなのだなと、妙に納得してしまった。
インタビューを読み終えてから、『新潮』4月号の村上春樹「ハナレイ・ベイ」(東京奇譚集2)を読む。19歳の息子がハワイでサーフィンをしているときに鮫に襲われて死んでしまった女性(サチ)が、毎年、その時期に3週間ほど休暇をとってその町で過ごすという話。前号の「偶然の恋人」より今回の方が物語により奥行きが感じられる。で、読みながら、どうしても、「3つのブイはどれだろう」と考えてしまう。1つはたぶんこの箇所だろう。
・・・・彼女は火葬を許可する書類にサインをした。そのための費用を支払った。
「アメリカン・エクスプレスしかないんですが」とサチは言った。
「アメリカン・エクスプレスでけっこうです」と警官は言った。
私はアメリカン・エクスプレスで息子の火葬の料金を支払っているのだ、とサチは思った。それは彼女にとってずいぶん非現実的なことに思えた。息子が鮫に襲われて死んだというのと同じくらい、現実味を欠いていた。火葬は翌日の午前中に行われるということだった。
この短篇小説を読んでいて、最初にハッとしたのがこの箇所だった。「アメリカン・エクスプレスで息子の火葬料の支払いをする母親」というブイだ。2つ目のブイはたぶん次の箇所にある。それは彼女がプロのジャズピアニストになるのを断念した事情が回想的に語られる箇所だ。
彼女にはもともと絶対音階が備わっていたし、耳も人並み外れてよかった。どんメロディーでも一度聴けば、それをすぐに鍵盤のパターンに移し替えることができた。そのメロディーに合ったコードを見つけることもできた。誰に習ったわけでもないのに、十本の指は滑らかに動いた。彼女はピアノを弾く才能が生まれつき自然に備わっていたのだ。・・・・(中略)・・・・しかしサチはプロのピアニストにはなれそうになかった。彼女にできるのはオリジナルを正確にコピーすることだけだったからだ。そこにあるものを、そこにあるとおりに弾くことは簡単だった。しかし自分自身の音楽を作り出すことができない。自由に弾いていいと言われても、何をどう弾けばいいのかわからない。自由に弾き始めると、それは結局のところ、何かのコピーになってしまった。彼女はまた、楽譜を読むのが苦手だった。細かく書きこまれた楽譜を前にすると、ひどく息苦しくなった。実際の音を聴いて、それをそのままピアノの鍵盤に移し替える方が遙かに楽だった。これじゃピアニストとしてはとてもやっていけない、と彼女は思った。
「絶対音階はあるがオリジナリティに欠けるピアニスト」というブイだ。ここを読んでいて、さきほどロングインタビューの中で村上が引用していたシェーンベルクの言葉を思い出した。「音楽というのは楽譜で観念として読むものだ。実際の音は邪魔だ」。さて、2つ目のブイまではかなりの自信をもって「これがブイだ」と指摘できるのだが、3つ目がわからない。それらしきものがいくつかあるのだが、確信がない。その中の1つに「女の子とうまくやる3つの方法」というのがある。知りたいでしょ。男の子なら。でも、引用しません。なぜかというと、読んで驚いたのだが、その3つの方法というのは、私が常日頃半ば意識的に半ば無意識のうちに採用している方法と同じものだったからだ。短編小説と講義の組み立て方の類似といい、村上春樹とはずいぶんと相性がいいわけだ。
3.24(木)
気づいたら私の書斎の壁にディズニーのキャラクターのカレンダーが掛けられていた。妻の仕業である。書斎には机が二つあって、私がいつも座る机の上のプリンターの側面には小さなカレンダーパネル(今月分と来月分)が貼ってあるのだが、妻が通販商品をネットで購入するためにノートパソコンを使う机の周りにはカレンダーがなく、不便だと言っていた。書斎には装飾的なものは持ち込まないのが私の主義なのだが、なんだ、なんだ、このカレンダーは。しかも第一生命からのもらいものじゃないか(企業名の入ったカレンダーを使わないのも私の主義である)。これは書斎の支配権への明らかな介入である。なんとかしなければ。
村上春樹の『東京奇譚集』が掲載されている『新潮』4月号に、村上の小説の翻訳や研究で知られるハーバード大学教授(日本文学)ジェイ・ルービンの「芥川は世界文学となりえるか?」が載っている。イギリスの老舗出版社ペンギンから芥川龍之介選集(収録作品は18、すべてルービンによる新訳)を出すことになった一部始終が書かれているのだが、出版にあたってペンギンの編集者がルービンに注文したことが2つあったそうだ。1つは、序文を村上春樹に書いてもらうこと。もう1つは、選集のタイトルに「ラショーモン」の語を入れること。前者は海外におけるHaruki Murakamiの人気を物語るものであり、後者は芥川龍之介という名前は海外では黒沢明の映画『羅生門』の原作者として知られていることを示すものである。村上はこの仕事を引き受け、選集のタイトルは『ラショーモン:芥川龍之介による十八の物語』となる予定だという。興味深かったのは、ルービンが18の作品を選んだ際の基準である。
私が選んだのは、小説世界に入っていきやすいー普遍的ということだー自立している作品だった。それは単にこれまで芥川の最も「重要な」作品としてランクされてきた作品ということではない(最終的にそうした代表作のいくつかは、出色の出来ばえという理由で選集に入れる結論を出したのだが)。私が個人的におもしろみを見出せなかった作品(有名どころを挙げれば「芋粥」)、また作品の眼目が、日本の一般読者にのみ知られている事件や人物に対する芥川独自の解釈にあるものーたとえば西郷隆盛や乃木希典といった明治の偉人たちを扱った作品、あるいは「素戔鳴尊」や「袈裟と盛遠」のように伝説を題材とした作品―は翻訳から除くことにした。ロメオの名前を聞いたこともない人間が、実はロメオが死んでいなかったという仮定のもとに書かれた小説を読むことを想像してみればよい。ただ一例(「龍」)においてのみ、小説の導入部と結末部の枠組みをあえて取り去って、愉快な物語の中身だけを提示するようにした。その枠組みは、中世の説話集に詳しい日本人読者以外にはほとんど意味のないものだからである。それ以外はすべて小説の全体を翻訳している。
芥川をペンギン・クラシックに代表される「世界文学」にふさわしい作家として提示するに際して、私はこのように、日本人読者しか十分に味わえない側面を排除した。しかしそれ以外の物語について、再演ミスはなかったと信じる。私はできるかぎり原作に忠実に翻訳を行い、外国人読者に近づきやすくするために、おびただしい数の註をつけ加えた。今回の訳書に入れた作品は芥川のベストであると信じる。そして私はまた、日本の読者だけに好まれる小説が芥川のベストではないと信じる。
ルービンは、芥川の前期の傑作は「地獄変」で、後期の傑作は「歯車」だと語っている。そして、もし一作だけを選ぶならば「地獄変」を選ぶとのことだ。書庫で埃をかぶっている『芥川龍之介全集』(筑摩書房、1971)を久しぶりに手に取りたくなった。ちなみにペンギンの本は2006年の初頭に刊行の予定だそうだ。芥川の作品をわざわざ英訳で読みたいとは思わないが、村上の序文はぜひ読んでみたい。ルービンによれば、村上はこの仕事のために膨大な時間を使って芥川を再読再考し、日本の一般的な読書人にとって、そして作家としての自分にとって、芥川がいかなる重要性をもつかをつぶさに語っているそうだ。
3.25(金)
大学の卒業式。まず、一文の社会学専修の学位記(卒業証書)授与式に出る。この代は、2年生のときの演習、3年生のときの調査実習、4年生のときの卒論、そして2年~4年の研究(講義)とけっこう付き合いのあった代である。専修主任の長谷先生がひとりひとりの名前を読み上げて学位記を渡している様子を見ながら、ああ彼か、ああ彼女か、と大小のエピソードを思い出していた。乾杯の後、たくさんの学生と記念写真を撮った。ふと気づくと目の前に、4年前、二文の私の基礎演習の学生だったMさんがいた。彼女は2年生になるとき一文の東洋史専修に転部し、今日、卒業を迎え、わざわざ挨拶に来てくれたのだ。彼女は入学したときから将来は放送業界で働きたいと言っていたが、希望通り、この4月からNHKで働くことが決まった。同じ基礎演習の学生だったY君もNHKに就職したそうで、同じクラスから2人とは驚いた。文カフェで開かれている二文の卒業パーティーに顔を出す。基礎演習のときの学生がいないか会場を見渡していたら、N君、Aさん、もう一人のAさん、Iさん、Yさんが私を見つけてやってきた。久しぶりの顔である。夜、新宿ワシントンホテルで社会学専修の謝恩会。歓談、談笑していても、謝恩会というのはどこかしんみりしたところがある。みんな、お元気で。
3.26(土)
毎年、いまの時期は、気分が沈みがちである。卒業生を送り出し、新しい学生との付き合いが始まるまでの一種のエアポケットのような時期である。ただ、私の周りには花粉症で浮かない顔をしている人が多いので、沈んだ顔をしていてもそれほど目立たずにすむ。午前、妹と甥っ子がやってきた。甥っ子は4月から大学生である。希望していた大学に合格し、清々しい顔をしている。午後、ギデンズ『社会学』の読書会があるので、元気を出して大学に出る。学生の前に出るときは沈んだ気分は払拭しなければならない。いや、おそらく事情は逆で、学生の前に出る機会が多いことが気分の過度の落ち込みを防いでくれているのだろう。中の下くらいの気分で踏みとどまりながら、4月中旬の授業開始までに、徐々に気分を高め、同時に、徐々に体重を落としていなかくてはならない。
3.29(火)
家族とスキーに行ってきた。越後湯沢からバスで50分ほどの中魚沼郡津南町にあるスキー場で、今度高2になる長男が2、3歳の頃から毎年行っている場所だが、去年は長女の大学受験等があって行けなかったので、滑るのは2年ぶりである。天気予報では、2日目の午後から雨とのことだったので、初日の午後と2日目の午前中、休憩らしい休憩もとらず(妻がそれを許してくれず)目一杯滑ったのだが、2日目の午後になっても天気は一向に崩れず、結局、最終日の午前中までフルに滑った。普段、運動らしい運動をまったくしない私にとっては、ハードな3日間だった。
スキー場に滞在中、スキー以外に私にはもう一つ課題があった。ワニたたきゲームでハイスコアーを出すことである。ホテル内の大浴場の入口付近はゲームセンターになっていて、ここにワニたたきゲームが一台置かれている。ワニたたきゲームとは、もぐらたたきゲームの系譜に属する動体視力と反射神経を競うゲームであるが、一部の人々の間で、私は若い頃からもぐらたたきゲームの名手として知られていた。ゲーム台に電光掲示されているその日のハイスコアーを更新すること、それが私のミッションだった。2日目の夕方、風呂から上がって、ワニたたきゲームのところに行くと、その日のハイスコアーは「84」と表示されていた。並の数値である。私はハンマーを手にして、ゲーム機に100円硬貨を挿入し、左右の足に体重を均等に乗せ、心持ち腰を落とした。ゲームの開始を知らせる音楽が鳴った。近くにいた子どもたちが集まってきた。舞台は整った。横一列に並んだ穴からワニが次々に顔を出す。その口の部分を正確にハンマーでたたいていく。その度に「イテッ!」という音声が発せられ、電光掲示板の数値が1ポイント上がる。ワニの動作は初め緩慢で、しだいに敏捷になっていく。ハイスコアーが出るかどうかは、「モウオコッタゾ!」という音声を合図に展開される残り20秒の攻防戦にかかっている。途中、その日のハイスコアーの「84」を更新したところで、子どもたちから小さな悲鳴があがった。どうやら「84」は彼らのスコアーだったようだ。悪いな、坊や。スコアーは最終的に「92」まで行った(ヒット数は93だったが、防御ラインを越えられたワニが一匹いたので-1)。悪くない数値だった。子どもたちの畏敬のまなざしの中、私はハンマーを静かに置いて、クリント・イーストウッド演じる伝説のガンマンのように、夕日を背中に浴びながらゲームセンターを立ち去ったのだった。
3.30(水)
スキーに行く列車の中で読み始めた加藤周一・凡人会『テロリズムと日常性』(青木書店、2002)を読み終わる。最初に読んだ加藤周一の本は『羊の歌』(岩波新書)だったと思う。大学に入学して間もない頃のことで、友人から勧められて読んだのだと記憶している。内容は自伝なのだが、とにかくその文体の印象が強烈だった。いや、私に日本語の文体というものを意識させた最初の本が『羊の歌』だったと言った方が適切だろう。それまでも、星新一、北杜夫、志賀直哉、庄司薫・・・・と好きな作家はいた。しかし、彼らの文章が好きというとき、その文章と内容と文体の魅力は分かちがたく結びついていた。それに対して、加藤周一の文体の魅力は文章の内容とは独立に存在するものであった。たとえば、小学生の頃の読書体験を語ったこんな一節。
私の読んだ本が、自然科学について語り、心理学や歴史と社会の学問について語らなかったのは、私にとっての偶然に過ぎない。社会科学的なもうひとりの原田三夫がいたら、私は銀河系宇宙の構造に対してと全く同様に、黒人アフリカの部落の構造に対しても、好奇心を刺戟されていたことであろう。私の最初に覚えた外国語はーそれは呪文のような響きを備え、神秘的な雰囲気を伴っていたのだがー直立猿人を意味する羅甸語ではなく、たとえば共同体を意味する現代の西洋語、ゲマインシャフトであったかもしれない。しかしそれは大きなちがいではなかった。子供の私は本のなかで、自然科学を学んだのではなく、世界を解釈することのよろこびを知ったのである。その後ながく私は、世界が解釈することのできるものだということを、世界の構造には秩序があるということを、決して疑ったことがなかった。
たとえば、また、終戦直後の心情を語ったこんな一節。
焼き払われた東京には、人の心を打つ廃墟も、水火に堪えて生き残った観念も、言葉もない。ただ巨大な徒労の消え去った後に限りない空虚があるばかりだ、と私は思った。しかしもはや、嘘も、にせものもない世界―広い夕焼けの空は、ほんとうの空であり、瓦礫の間にのびた夏草はほんとうの夏草である。ほんとうのものは、たとえ焼跡であっても、嘘でかためた宮殿より、美しいだろう。私はそのとき希望にあふれていた。私はそのときほど日本国の将来について、楽天的であり、みずから何ごとかをなさんとする勇気にみちていたことはなかった。私はまだ何ごともはじめていなかったのだから、悲観的になるはずもなかった。そして東条内閣の閣僚たちは、まだ戦後日本の指導者として返り咲いてはいなかったから、たしかに希望もあったのである。足りなかったのは、食糧である。しかし人はパンのみで生くるものではない。
一言で言えば、加藤周一の文体の魅力とは、知的なレトリックの魅力である。それは中学生には難しいだろうし、社会人にはおそらく嫌味に感じられるだろう。しかし、大学の文学部の新入生にはとても小気味よいものであった。『羊の歌』に感激した私は、当時加藤が『朝日ジャーナル』に連載していた『日本文学史序説』を毎号貪るようにして読んだ。そして、読むだけでなく、その文体を模倣して文章を書いた。卒論を含めて、私が学部時代に書いたレポートの多くは加藤周一のモノマネであるといっても過言ではない。それにしても、加藤は1919年(大正8年)の生まれだから、今年で86歳になるわけだが、朝日新聞の夕刊に月に一度「夕陽妄語」という評論を寄せていて、この連載は実に20年も続いている。なんと長い夕陽であることだろう。
3.31(木)
調査実習の報告書の印刷・製本の費用の見積が出る。ライフストーリー・インタビュー記録(約400頁)を報告書に盛り込んだ場合と学生のレポート(約300頁)のみの場合、2通り見積を出してもらったところ(数量は200冊)、前者は約91万円、後者は約31万円となった。700頁超の報告書(一文の講義要項並である)となると製本代がかかるそうで、むしろ二分冊にした方が安いくらいなのだが、いずれにしろ実習費の残額から考えて後者でいくほかはない。インタビュー記録はPDFファイルにして付録のCD-Rに収めることにしよう。さっそく量販店に行って、CD-Rとソフトケース(各200枚)を仕入れてこなければ。