このブログには、あまり個人的価値観によって異なる思想(たとえば、政治とか宗教とか)については、書かないように心がけています。だけど、今日は少しだけ。
京都の大文字祭りで、陸前高田市の松が拒否されたニュースは、本当に衝撃的でした。
陸前高田市の松が、しかも大切な人を亡くした方々がメッセージを書き込んだ300本近い松の薪が、このお祭りに使われると聞いたとき、とても素晴らしいことだと思いました。京都という街は、理屈ではなく、日本に暮らす人々にとって、特別な場所だから。
それが、「放射能を含んでるかもしれない・飛散するかもしれない」という理由で、中止になりました。その心配が出たこと自体は、やむを得ないと思う。やはり、「目に見えない」恐怖というのは、底抜けに怖いものだし。でも、今回どうしても納得できないのは、せっかく費用をかけて科学的に調べて、「検出されず」という結果が出たのに、中止になったこと。しかも、その検査を依頼したのと同じ団体が、中止を決めたこと。だったら、そもそもどうして検査を依頼したの?
伝統のある街、伝統のあるお祭りだから、難しいことがあるのかもしれない。でも、だからこそ、いまこそ、『勇気のある』決断は、出来なかったのか。
8日の夜。陸前高田市で、街の人に見守られる中、集められた薪が燃やされたそうです。メッセージは空に届いたと思う。でも、今回のことを、わたしは遠い街で済んだひとつの出来事、と割りきることが出来ずに、気持ちが泡だったままでいます。