ビルマが心配です。
留学中、仲良しのクラスメイト(タイ人)のルームメイトがビルマから来ているおばさまでした。数学の勉強で大学院に来ていたのですが、ご主人と子供は常に政府の管理下にあり、自分の手紙や電話、プレゼント等はすべて政府がチェックしてからじゃないと、家族に届かないと言っていました。電話の長さも限られていて、いつもブチっと制限時間で切れてしまい、電話の後はいつも泣いていました。そんな思いまでして勉強しに来ている彼女を見ていて、遊び半分の留学をしていた私は、とても恥ずかしい思いをしたのです。
私が日本に戻ると決まったとき、彼女は手編みのセーターを贈ってくれました。
「あなたは、とても幼くて、娘を見ているようだった。本当に寂しい。」
と泣いてくれました。私は母親ほど歳の離れた彼女にいつしかホームシックの思いをぶつけ、いつも元気づけられていたんだ、と改めて気付きました。
彼女がアメリカに居る間は連絡がとれましたが、その後は全く音信不通のままです。インターネットやメールの無い時代で、連絡をとる努力を怠った私のせいでもあります。
でも、今回の報道でも、彼女のコトバをいつも思い出します。
「私はミャンマーという国を認めていない。私と子供の祖国は『ビルマ』なのだ」
と。
留学中、仲良しのクラスメイト(タイ人)のルームメイトがビルマから来ているおばさまでした。数学の勉強で大学院に来ていたのですが、ご主人と子供は常に政府の管理下にあり、自分の手紙や電話、プレゼント等はすべて政府がチェックしてからじゃないと、家族に届かないと言っていました。電話の長さも限られていて、いつもブチっと制限時間で切れてしまい、電話の後はいつも泣いていました。そんな思いまでして勉強しに来ている彼女を見ていて、遊び半分の留学をしていた私は、とても恥ずかしい思いをしたのです。
私が日本に戻ると決まったとき、彼女は手編みのセーターを贈ってくれました。
「あなたは、とても幼くて、娘を見ているようだった。本当に寂しい。」
と泣いてくれました。私は母親ほど歳の離れた彼女にいつしかホームシックの思いをぶつけ、いつも元気づけられていたんだ、と改めて気付きました。
彼女がアメリカに居る間は連絡がとれましたが、その後は全く音信不通のままです。インターネットやメールの無い時代で、連絡をとる努力を怠った私のせいでもあります。
でも、今回の報道でも、彼女のコトバをいつも思い出します。
「私はミャンマーという国を認めていない。私と子供の祖国は『ビルマ』なのだ」
と。