<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしを救えないようでは、仏とは言えない その7

2019年01月12日 21時27分25秒 | Weblog

だからわたし(=此処ではさぶろう老人のこと)もまた、洩れずに成仏を勝ち得ているということである。生きているときでもいいし、死んでからでもいい。兎に角完了している。どのみち、安心をしていていいということである。わたしを救わないようでは、阿弥陀仏とは言えないのである。阿弥陀仏になったということは、わたしを救う仏と成ったということでなければならなかったのである。

わたし(=此処ではさぶろう老人のこと)を救えないようでは、仏とは言えない。しかし、阿弥陀仏の誓いは成就したのである。仏に成られたのである。わたしは「救われている者」となったのである。

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わたしを救えないようでは、仏とは言えない その6

2019年01月12日 21時22分39秒 | Weblog

この願いは完了した。法蔵菩薩は阿弥陀仏に成られた。成仏を果たされた。ということは? どういうことだったのか? 生者死者のすべてが救われたということである。死者生者のすべてが成仏を果たし得たということである。誓いが完了完結したということである。

法蔵菩薩の願いは成就したのである。世自在王仏との誓いは完了完結したのである。阿弥陀仏の名がいま現に尽十方に聞こえているのである。呼ぶことが出来るのである。名を呼ぶことが出来るようになされているのである。

 

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わたしを救えないようでは、仏とは言えない その5

2019年01月12日 21時21分17秒 | Weblog

(法蔵菩薩が)阿弥陀仏に成仏するということは、死者生者すべての人が救われて成仏するということである。これが成立不可能であるとすれば、わたし(=法蔵菩薩)は、阿弥陀仏にはならない。救わない仏というのは仏ではないからである。人を仏にしない仏は、仏ではありえないからである。

 

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わたしを救えないようでは、仏とは言えない その4

2019年01月12日 21時19分29秒 | Weblog

ここでの「わたし」というのは、法蔵菩薩のことです。阿弥陀仏に成られる前の修業時代の名です。世自在王仏という仏さまのみもとで、法蔵菩薩は仏に成るための修行に取り組んでおられました。そしてその世自在王仏にお誓いをされるのです。48願の願いを建てられます。その「一つ一つの願いが成就しなければ、わたしは阿弥陀仏にはなりません」という誓いを申し述べられます。願いとはどんな願いだったか。誓いとはどんな誓いだったか。

 

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わたしを救えないようでは、仏とは言えない その3

2019年01月12日 21時14分58秒 | Weblog

わたしが、仏道を成じるに至れば、わたしの仏としての、阿弥陀仏という名が、十方の国々にまで超えて聞こえることだろう。しかし、もし、結局の所、わたしの阿弥陀仏としての名を聞こうとしても、仮に一人にでも、聞こえてこなかった人があるとすれば、わたしは正覚を取ることができません。仏にも成ることもできません。すべての人にわたしの名、阿弥陀仏の名が聞こえてくるようにすることを誓います。

わたしの名、阿弥陀仏の名が聞こえて来たということは、救われたということです。成仏が果たされたということです。

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わたしを救えないようでは、仏とは言えない その2

2019年01月12日 21時12分42秒 | Weblog

(ここからはわたし、さぶろう老人の解釈になります。嘘八百を列べることになるかもしれません。ご用心下さい)

我、至り至って、仏道を成じて 名声、十方に超えるとしよう、しかし、究竟するところ、もしも聞こえない処が何処かにあるとするのなら、我は誓って、正覚を成さず

 

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わたしを救えないようでは、仏とは言えない その1

2019年01月12日 19時45分42秒 | Weblog

我至成仏道 名声超十方 究竟非所聞 誓不成正覚     「大無量寿経」より

がしじょうぶつどう みょうしょうちょうじっぽう くきょうみしょもん せいふじょうしょうがく

われ仏(ぶつ)の道 さとりえば その名は十方(よも)に聞こえなん もし至らざるくまあらば 誓いて さとり えざらまし  (西本願寺経典の訳詩ではこうなっている)

 

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読者の皆さんにはそういうことはありませんでしたか

2019年01月12日 19時40分48秒 | Weblog

読者のみなさんにはそういうことはありませんでしたか? 空気圧が極端に減ってしまったことはありませんでしたか?

この「おでいげにおいでおいで」でも、仏典を引用して書いて投稿することがしばしばだ。これは、不安の解消をこころみているか、不安が襲ってこないようにする事前準備に相当している。ともかく安定がほしいのである。わたしは不安神経強迫観念症候群の患者なのだ。病院の医師がつけた病名ではない。勝手につけた病名だが、図星じゃないかと思う。

不安と疑問と猜疑心には捕まらない方がいい。そういうものとは縁を切っていたい。ずっと安らかにしていたい。ところがそうはいかない。不安と迷妄と煩悩が無尽に押し寄せてくるのである。

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自信過剰家だったらどんなによかっただろう

2019年01月12日 19時34分55秒 | Weblog

自信過剰家だったらどんなによかっただろう。自己否定をしないで済むのならどんなに楽だっただろう。不安の津波、つまり自己不信の津波は、頻繁に押し寄せて来た。

飲み薬は? 飲み薬はあったのである。僕の場合は、大概は仏典であった。浄土真宗経典であり、禅宗経典であり、密教経典であり、法華宗経典であった。声に出して朗読していると、大抵は収まった。

ともかく言い聞かせる。何度も執拗に言い聞かせるのである。落ち着くまで仏陀の教えを復唱させてやるのである。すると、「ああ、そうだったのだ」と納得が顔を見せる。落ち着きが来る。

そしてまた時間が経過すると、またもやガーターの、泥水の溝に落ちてしまう。不安に拿捕されている。この繰り返しだったような気がする。

 

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やあらと自己否定、自己蔑視が頻発する

2019年01月12日 19時31分24秒 | Weblog

若年性疾患の症状ですむかと思いきや、この症状は意外と長引いた。老人になったいまもそれが起こる。ふっと起こる。事前の予兆無しに、だ。急襲の津波の勢いに対抗できずに、へなへなとなる。

此処へ来るとやたらと自己否定が勃発する。いずれ自分で治せるのだが、この治療はなかなか難しいのだ。否定の感情の気圧が上がると長引いてしまう。気圧が下がるのを根気強く待たねばならない。

 

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