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これからしばらく雑誌を読んでから寝ます。おやすみなさい。今日も複数回のブログを書きました。読んで頂いた方にお礼を申し上げます。
今日は午前中一杯と午後の少しだけは、檀家寺で過ごしました。親鸞聖人のご命日の行事、報恩講の準備のお手伝いをしました。わたしが人の中に入って行くのは珍しいことです。滅多にありません。人との対応の方法が分からないので、どぎまぎして過ごしました。
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これからしばらく雑誌を読んでから寝ます。おやすみなさい。今日も複数回のブログを書きました。読んで頂いた方にお礼を申し上げます。
今日は午前中一杯と午後の少しだけは、檀家寺で過ごしました。親鸞聖人のご命日の行事、報恩講の準備のお手伝いをしました。わたしが人の中に入って行くのは珍しいことです。滅多にありません。人との対応の方法が分からないので、どぎまぎして過ごしました。
5
あることないこと、なべて、嘘八百を書いていますから、読者の方に申し訳ない気持ちがあります。10年以上も書いていますが、その間の固定客はいらっしゃらないようです。わたしは勉強熱心ではありません。読書量知識量はまったく増えません。だから、すべてが浅薄です。薄皮です。役に立つ情報を提供する力はありません。
4
仏教のことをよく話題にしていますが、これは正確さを欠きます。わたしは仏教学者でも僧侶でもありません。ただの野次馬です。そこら辺でうろちょろして面白がっている老いた親爺馬(野次馬の語源)です。書いた内容は、だから、要注意です。「かくあれかし」なのに、断定的に書いてしまうことがあります。
でも、仏陀をとても尊敬しています。愛着を感じてもいます。
3
たまに恋人のことを書いたりしますが、実際にいるわけではありません。妄想が描く恋人です。ちょっと、だから哀れです。非実在だから、息をしていないのです。浜辺の砂に描いた人形の絵です。すぐに波に打ち消されます。打ち消されても、しかし、被害はありません。彼女が抗議をしてくるわけでもありません。いつだって、彼女は可愛くて安らかです。
2
ロマンチックなことも書きたいのです。ロマンチックなことをしていなくとも、ロマンチックなことを書いた方が、読みやすくなるだろうと思います。で、ときどき、そうします。無理がありますが、そうします。暗い気持ちにさせる内容よりもいいはずです。そうしますが、非現実だから、ロマンチックの迫力に欠けます。
1
どんな読者がわたしのブログを読んでいて下さるのでしょう。実際に会ってアドバイスをもらいたい気もしますし、会わない方がいい気もします。どなたかが分からないでいるから、書けているのかもしれません。人数から言うと、毎回10人から12人ほどが記録されています。それ以下にはなりますが、なかなかそれ以上にはなりません。
好き?
嫌い?
好き?
嫌い?
なんだ、二択しかないのか。
いえ、段階はあります。好きには好きの。嫌いには嫌いの。好き3とか、好き10とあ、すき780とか、これは無際限です。
はい、もちろん、反対もそうです。嫌い36とか、75とか、1060とか。
でもたしかにそうです。二者選択です。好きか嫌いかです。
正解なんてものはありません。あくまで好き嫌いの感情論です。それに、ちょっとだけ理屈という毛が生えています。
これでよし。そう、これでよし、なのである。何がどうあったって、これでよし、なのである。よくなかったって、どうする術もない。よしとした方がずっと賢明である。波はわたしの現在に打ち寄せているのである。現在完了形で、打ち寄せてしまっているのである。波は引き返していく。それを見ている。そしてその波の是非を問うているが、もう波は沖へ返しているのである。どう評価したって沖へ返してしまっているのである。わたしは、これよしを言うしかないではないか。これでよしと言うことが、わたしを健康にする最善最良の方法なのだ。
夜も更けてきた。一日を振り返ってみる。これでよし、で締め括る。
お風呂に入った。あたたまった。湯船から出て、タオルに石鹸を着けてゴシゴシ体を擦った。垢が、さよならさよならを言いながら、流れ落ちて行った。垢はわたしではなかったのである。だから、流れ去っていくのに、わたしも垢も、未練を覚えなかったのである。垢とは、しかし、古くなったわたしの細胞なのである。嘗てはたしかにわたしだったのである。彼らは、わたしから潔く剥がれ堕ちて行く。その剥がれ堕ちた隙間には、新しい細胞がもう到着して我が物の顔をしている。彼らも、しかし、ほとんど自己主張をしていない。存在を明瞭にしている風でもない。いつでも置き換わって行くことが出来るように覚悟を決めている。
わたしを認識しているわたしは、何処にいるのか。中心部にいるのか。わたしの一部がどんどんすり替わって行くというのに、わたしの中心はそれにはほとんど無関心のようである。少なくとも無関心を決め込んでいる風である。あっさりしたもんである。これでいいのかもしれない。このあっさりでいいのかもしれない。
わたしの団子鼻は、わたしによくブレーキを踏ませた。あの人がどんなに可愛くても、わたしは団子鼻である。おん前に出て行くにはふさわしくなかったのである。西洋人のような天狗の鼻をしていたら、わたしはアクセルだけでこの人生を渡って行けたはず。それがそうならなかったのである。アクセルは踏まなくてよかったのである。始終、右足の運転は、あはれ、ブレーキだけを踏んでいたのである。美しい人は我が眼前を過ぎて行った。季節の春がそっくり夏になるように、過ぎて行った。留まることはなかったのである。
鏡の前に来て、鼻を見ている。歯を磨いている。わたしに巡り会いをももたらさなかった団子鼻が、にたりと笑っている。オレの勝ちだとにたりと笑っている。たしかにこれしきのオブスタックルで、わたしは先へ進めなかったのである。愛しさをどんなに湧き起こそうと、性の欲望をどんなに満たそうと図って、思い悩んでも、それはそこまでで、一通のラブレターをすら書けなかったのである。