<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

知らないことが多いものだ まったくまったく

2019年01月21日 22時30分59秒 | Weblog

もうやすみます。おやすみなさい。

へええ、「猫ばばをする」の諺の「ばば」というのは糞のことだったのか。教育テレビを見てたら、そんな番組があっていた。テレビは見ないことにしているが、退屈で見てしまった。

猫は糞をしたら、後ろ足で土を被せて隠す。悪事を働いて、それを隠して、知らん顔をしていること、らしい。落とし物を我が物にしてしまうときなどに、使う。「猫ばばを決め込む」とも表現する。糞で縄張りを主張する動物もいるが、猫はそれよりも、己の居所を他の猫に知られたくない主義なのか。ただのきれい好きなだけかもしれない。

知らないことが多いものだ。まったくまったく。

でも寝ます。それはそれ、これはこれ。

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病室の寝息が廊下まで流れ出ている

2019年01月21日 22時15分29秒 | Weblog

非常口の光穏やか 病棟はももとせ生きる寝息をも包む    うきは市 世利美保子さんの作品

西日本新聞の、西日本文芸、今朝の入選歌の中の一首。

ももとせ(百年)生きている人が寝息を立てている。すううすううと穏やかな寝息を立てている。真夜中だ。廊下の突き当たりに非常口があって、そこへ辿るための方向指示灯が中央に灯されている。光は眠らない。眠ってはいけない。いつもと変わらない光の明るさだ。異変を教えているわけではなく、穏やかである。病室の寝息が廊下まで流れ出ている。この病室には、百歳を迎えた人が3人列んでいる。午前2時。ナースキャップを被った看護士さんが回って来た。病室を見回って戻って行った。

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老いてないと出来ないということもある

2019年01月21日 21時56分02秒 | Weblog

老いて尚為すこと多し春待たる      

これは西日本新聞読者文芸 今朝の入選歌 福岡 原田初子さんの作品。これも、分かり易かった。わたしにでも、肯けた。

俳句というのは、分からないほどいい句だと、勘違いしていたむきが、わたしにはあった。そうでないのも選ばれていた、という発見は新しかった。

春が来るのを待っているのは、待つだけの期待があるからだ。春を待っていたら、いいことがあるのだ。いいことに繋がるいいことに出遭えるのだ。あれもしてみたい、これもしてみたい。そういう思いが、虫のように蠢いている。老いていても若くても、思いというのは蠢く。老いたら、蠢かなくなるということはない。老いてないと出来ないということもある。老いたらしてはならないという法律はない。馬券も買っていいだろう、企業を興してもいいだろう、月へ行ってかぐや姫に会ってもいいだろう、噎せるような熱い恋もしていいだろう。

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読者のわたしに嘘八百が許されている

2019年01月21日 21時23分41秒 | Weblog

行く度も病む手をさすり賀状書く     糸島市 春田美智子さんの作品

これも今朝の西日本新聞の、西日本文芸俳句部門の入選作品。これは、門外漢でもなんとなく分かる。そうだろうなあと思う。情景が浮かぶ。

病気をしていても、病床から這い出てきて、その手をさすりさすり賀状を書いている。返事を書いているのだろう。そこまでするのはどうして? 寝ていてもいいのである。返事を書かなくったって理由がつく。文句は言われまい。

ではどうして? 同い年のあの人の元気が嬉しかったからである。肖(あやか)りたいという気持ちも動く。書けば、元気が取り戻せるのではないかという期待を抱く。

書いておきたい。死ぬかもしれないからだ。今書いておかねばもう書く機会が永遠に来ないかもしれないという不安に駆られる。それならば、書いておきたい。震える手をさすりさすり賀状を書く。一字一字丁寧に書く。

わたしは、こんな状況設定をして遊んだ。全くそうではないかもしれないけど。俳句もまた楽しい。読者のわたしに嘘八百が許されている。

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今夜の老爺はこれで幸福になった

2019年01月21日 21時03分07秒 | Weblog

二十日大根を、畑から抜いて来たあと、そのままで、夕食時にかりかりかりと囓って食べた。マヨネーズとケチャップを混ぜた混合出し汁にちょっとだけ浸けて。二十日大根は赤い。小さい。桑の実ほど細長く丸くに小さい。これがおいしかった。焼酎のお湯割りの酒の肴とした。今夜の老爺はこれで幸福になった。

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わたしはそっと去って行くしかないだろう

2019年01月21日 20時35分07秒 | Weblog

デカルトやカントの話できる友とホールに二人冬日和過ぐ     唐津市 梶山美智子さん

これも今朝の西日本新聞、西日本読者文芸、短歌部門の入選歌。伊藤一彦選者の選ばれた秀歌一種目に列んでいた。選者は、選評で、「暖かい冬の日射しを浴びながら、人生や世界について知的な会話をしている二人の姿が目に浮かぶ」と書いておられた。

このホールは何処のホールなのだろう? 文化会館のコンサート大ホール? 市役所のホール? 会堂、講堂、大広間? もしかしたら葬儀場? 冬の日和を柔らかくして受けているのであれば、ここは図書館?

二人はこのホールでデカルトやカントの話をしたらしい。西洋哲学を話して過ごしたらしい。友人とともにコギト・エルゴ・スムの思惟する精神に沈潜し、コペルニクス的転回をなぞって過ごせたらしい。わたしにはとてもできない芸当だ。

わたしはこういうのは苦手だ。熟知していないからだ。はっきり言えばわたしはデカルトもカントも読んでいない。門外漢だ。だから、わたしはこの人の話し相手にはなれない。まったくなれない。わたしはこのホールをそっと去って行くしかないだろう。

此の歌はわたしを悲しくさせた。わたしはこの種の領域にはいないからだ。智者ではないからだ。ここには入って行けないからだ。

 

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ふふ、糸島の諸隈さんちでも同じ事をやっていたのだ

2019年01月21日 20時18分53秒 | Weblog

物言わぬ冬菜と話し虫潰し草毟るうち心静まる        糸島市 諸隈三枝子さん

西日本新聞の西日本文芸、短歌部門の、今日の、入選歌の一つ、これは。

うん、同感する。共感する。心が静まるのだ、草を毟ると。

わたしの場合は冬菜と、声を出して、会話をすることはない。この方も、案外、いっしょなのかもしれない。話が出来たように思うだけかもしれない。声に出さなければ、話が出来ないというのでもない。

虫を潰すというから、この冬菜はキャベツかもしれない。虫はキャベツを食い荒らす。紋白蝶、紋黄蝶が飛んでみてやたらに卵を産み落とす。それが孵化して、青虫がぞろぞろ這うことになる。もうそろそろ喰ってもいいころに成長しているキャベツには、殺虫剤は掛けられない。見つけては、箸に摘まんで、足で踏みつぶすしかない。面倒な仕事である。これをやらないと、キャベツは、破れ傘になる。それでせっせせっせと踏み潰す。

こうしていると、しかし、虫さんには悪いが、人間は無心になれるのだ。心静かになれるのだ。虫さんのお陰だ。虫を目敏く見つけながら、草毟りを続けて行く。

ふふ、糸島の諸隈さんちでも同じ事をやっていたのだ。

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それでも 茹で蛸にはなれない

2019年01月21日 20時08分06秒 | Weblog

お風呂に入った。お風呂には入浴剤が施してある。乾燥性湿疹の治療に効き目があるという薬風呂にしてある。乳白色というより乳青色。ぬるぬるする。肌に纏わり付く。何だか効き目がありそうに思われて来る。老人の肌は乾燥している。かさかさしている。潤いがない。これを潤いのあるものにしてくれたら、万々歳だろう。幾分長めに入る。湯の温度をことさら高温にしないで、低めにしてゆったりする。鼻歌を歌う。しかし、そうそう長く入れるものでもない。長く入ってなければ、治して上げようと力んでいる入浴剤に申し訳がない。迷いが出る。茹で蛸にはなれない。

ああ、いい気持ちだった。あたたまった。日本人はこうして毎日一日を終えるときに湯を浴びる。まったく清潔を重んじる民族だ。

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威張れるわけでもない 自慢にもならない

2019年01月21日 18時05分30秒 | Weblog

日が落ちて行くと、しかし、気温が下がって寒くなった。おまけに風まで吹き出した。鼻水が垂れる。震える。それで幾分早めに切り上げて、家の中に戻って来た。

これが老爺の一日となった。何をしたというわけでもない。草取りをしたくらいで、威張れるわけでもない。自慢にもならない。それはそうだが、気持ちがいいのである。草取りをすると、愉快になれるのである。

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何も考えないでいられる こんなところがいいのかなあ

2019年01月21日 17時57分42秒 | Weblog

誰の相手もしていない。無言でいられる。単純作業だから、何も考えていない。だんだんと無心に近づいて行く。こんなところがいいのかなあ。もちろん、土を覆っていた草がなくなるのだから、それだけきれいになる。清潔になる。仕事とは言えないかも知れないが、何かを遣り遂げたという達成感が来る。気持ちが軽くなって行く。そういうところもあるのかなあ。

 

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