<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

どきどきどきっとすること その2

2019年01月06日 20時10分35秒 | Weblog

どきどきどきっととして、顔を上気させる。顔に桜の花がどんどん咲き誇る。こんなことがたまには起きてくれないかなあ。

これから起きるよりも、今現に起きていることを、こんなふうに受け取ればいいけどなあ。

嬉しいなあ嬉しいなあと受け取って、顔をほころばせる。花のようにほころばせる。その技術を取得した方が早道なんだがなあ。

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どきどきどきっとすること

2019年01月06日 19時00分51秒 | Weblog

どきどきどきっとすることはないか。ないなあ。どきどきどきっとすることがあればいいなあ。ぱっと顔が上気して桜色になるようなことが。三度も五度も十度も飛び上がるような嬉しいことが。あればいいなあ。ない。たまにはあってもいいはずなんだがなあ。

 

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沈丁花が花芽を着けていた

2019年01月06日 13時55分36秒 | Weblog

庭に下りて、しみじみと、近くに寄って、見てみたら、沈丁花が花芽を着けていた。まだ小さな、色をも見せない蕾だけど。「ほう、そうか」「そうかそうか」と声を出して、見入った。時が動いているのである、確実に。現実はあたたかくはなっていないけれど、その方向を目指しているのである。

ものには、向きがあったのである。ときは、向きを持っていたのである。

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相手を軸足にしているときに、ハタラキが出現する

2019年01月06日 13時32分52秒 | Weblog

明暗おのおの相対して、比するに前後の歩みの如し。   禅宗経典「賛同契(さんどうかい)」より

明暗は、右足と左足の役をしている。これで歩いて行くことができる。片方だけでも歩けないことはないが、妙な歩き方になる。ケンケンパタの、ケンケンは出来ても、パタができない。片方だけを義とはしていないのだ。

一対ということである。明の右足、暗の左足がペアになっているということである。2者があって、歩みが出来る。これは明暗だけではあるまい。賢愚もそうだろう。大小もそうだろう。天地もそうだろう。清濁もそうだろう。

相手を軸足にしているときに、片方が用を為す。生死も、生が右足で、死が左足である。二つを働かせて、往生成仏を果たす。

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ひりひり ちくんちくん ぴりりり その2

2019年01月06日 13時29分48秒 | Weblog

不安を抱えてしか生きて行けないのか。僕の場合はそうみたいだな。残念ながら。

往生際が悪い。なるようにしかならないのに、そこをなんとかしようとする。こじ開けようとする。

結局、徒労に終わる。でもまた再挑戦する。この繰り返しだよね。解決策は浮かんでも解決はしない。

だったら、それ、解決策じゃなかったんだよね。細い道がだらだら続く。丘を越え山を越えて行く。

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ひりひり ちくんちくん ぴりりり その1

2019年01月06日 12時53分27秒 | Weblog

割り切ったようで割り切れてないんだよね。やっぱり、不安が燻ぼっている。おかしい。

じゃ、もう割り切ったりしない方がいいんじゃないか。そうかもしれない。

でも、庖丁で、小さく大きく、割り切ったからこそ、小餅になったんじゃない? どう?

ひりひり、ちくんちくん、ぴりりりしている。火傷の痕みたいに。大きい痛みじゃないけれど、痛みは痛み。

 

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お正月は神頼みが公然とできるとき ラスト

2019年01月06日 10時34分21秒 | Weblog

それにしてもお正月の神社の参拝者の列の長かったこと。恋人二人、若夫婦老夫婦二人、親子連れ、三世代の大家族、同級生仲間、会社の仲間、ときには颯爽たる一人。いろいろいろいろ。それで三列五列縦隊で大渋滞。鳥居の先の先まで続いていた。そこから神殿まではじっとじっと立ち尽くして、順番を待つ。寒い。だがみな、その長い待ち時間を嫌がって立ち去ろうとは、しない。まことに根気強い。

神社詣りの長蛇の列は、日本のお正月の何処にでも見られるあり触れた風景である。

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お正月は神頼みが公然とできるとき その4

2019年01月06日 10時26分29秒 | Weblog

利益(りえき)は人間の手で勝ち取る勝利品だが、ご利益(りやく)は違う。神に委ねたものである。神がこちらに提供してくれるギフトである。

いやいや、参拝者の中には、神頼みはしなかったという奇特な方もおいでだっただろう。お礼参りだけをされていた方もあっただろう。神頼みとは未来への請求事である。平安であった過去を思えば、「有り難うございました」としか言えない。領収証持参のお礼参りである。

「新しい今日の一月一日に神社詣りが出来ました。何よりの吉祥でありました。これこそが先ず以て一番の有り難いことでございました」と。

 

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お正月は神頼みが公然とできるとき その3

2019年01月06日 10時21分24秒 | Weblog

参拝した者は、即その場で快く聞き届けられたという安心感を得る。でもって、ますます、めでたい正月ということになる。それを批判、批難することはない。ないように思う。何よりそれで当事者が安らげるのである。平和な気持ちになれるのである。大吉を実感できるのである。簡単簡潔でいい。毒がなくていい。後腐れしないでいい。神様もさぞやご同慶であろう。

 

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お正月は神頼みが公然とできるとき その2

2019年01月06日 10時16分46秒 | Weblog

参拝できたことを有り難がる。まことに自然に有り難がる。違和感などなんにも感じないで。人が神に頼み事をする。人間では叶えられないことを神に頼んでおすがりする。神様が、人間に代わって、最大級の人間の幸福の、代行業務に邁進される。この利他行実践活動あってこその神様である。これでこそ神様である。

 

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