午後の即興詩 「あなたの目へ入って行く」
目はこころの窓である/ここへこころが来て/外を覗く/灯りがつくと/神々が遊びに来る/目の内と外は/宇宙の内と外くらいも離れているが/すぐ近くでもある/つまり距離を持たない/目は神秘の湖でもある/わたしの目にもあなたの目にも/星がまたたいている/退屈がらずに/あなたの好きな人の/目を見てごらん/そこから/内部へ進んで行ってごらん/
午後の即興詩 「あなたの目へ入って行く」
目はこころの窓である/ここへこころが来て/外を覗く/灯りがつくと/神々が遊びに来る/目の内と外は/宇宙の内と外くらいも離れているが/すぐ近くでもある/つまり距離を持たない/目は神秘の湖でもある/わたしの目にもあなたの目にも/星がまたたいている/退屈がらずに/あなたの好きな人の/目を見てごらん/そこから/内部へ進んで行ってごらん/
我が短歌鑑賞 その6 「このさみしさを」
あめつちに われひとりゐて たつごとき このさみしさを きみはほほゑむ 会津八一(1881~1956)
*
さみしい。
歌を作った会津八一は、このとき、奈良の中宮寺にて救世観音菩薩と対面していた。観音菩薩と対面しているといよいよ、我がさみしさが際立って来た。この世を生きるさみしさが激流のように一気に流れ下る。飛沫が白く揚がる。寂しさのない処を、観音の立てている小さな指が、指し示して、微笑んでいる。安寧の天地は悠久を誇って揺るがない。というのに、このわたしのこころの揺れはどうだ。立っていられないほどではないか。菩薩よ我を救え。我のこの寂しさをまず、救え。
7
それにしても、読んでもらえないブログを、よく書いているねえ。一日に30篇だって日もあるよ。書くことがよくもまあそんなにあるものだ。我が事ながら感心する。中身が薄いからね。暇なんだよね、それだけ。そんなことするくらいなら、草でもむしったらいい。そう思ってときどき外に出る。寂しい。寂しさに急襲される。寂しさをブログで癒したくなる。文章の、安っぽい毛布に包まれて、そこで暫くあたたかくしたくなる。
仔猫が硝子窓の向こうの濡れ縁に来て、寝ている。日が仔猫の背中に射している。腹がぷくぷく膨れている。
寂しいのだ、おれは。ブログを書いても書いても寂しいのだ。消しゴムで寂しさを消して、また書いてまた消して、日長一日。佐賀弁で言えば、徒然なかあ。
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おっと、話が逸れてしまった。ブログの読者をどう増やすかの問いを発していた。元に戻ろう。
人は不安というマイナス電子を帯びている帯電者だ。しょっちゅうこれでビリビリしている。(え、それは、お前だけだろう? って? そうだといいが)それでそれを除去する必要がある。需要と供給の関係は成立する。「電気除去シートに触れてから給油して下さい」と給油所には書いてある。この役割をするブログがあったら、読んでもらえるに違いない。それはそうだが、そんな除去シートが造れるか。
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仏陀も基本的には「ワタシ ハ アナタ ヲ アイシテ イマス」のモールス信号を送っている。この愛の言葉送信専門家、スペシャリストだ。生きとし生けるもののすべてに発信している。お地蔵様も観音様も、不動明王様も、阿弥陀如来様も、薬師如来大日如来様も、愛情をやたらに一方的に送りつけて来る。受信したら、嬉しくて泣きたくなる。「アナタ ハ アイサレテ イマス ワタシ ニ アイサレテ イマス」の連呼。際限ない連呼だ。信じて味わえばやはり泣ける。
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恋愛関連記事という手がある! そうなんだ、恋愛こそは万人共通の磁石なのだ。恋愛小説はベストセラーの第一位だ。「ワタシ ハ アナタ ヲ アイシテ イマス」を人は言いたがる。言われてもみたい。誰からでもいい、<誰でもいい>というわけにもいくまいが、愛したい、愛されたいというのは人の根本的な欲望だ。この釣り針に掛からない魚は海を泳いでいない。肯定されたいのだ。受け入れられたいのだ。抱擁されて安堵したいのだ。しかし、だからといって、おししい釣り針に見せかけて、人心を拐(かどわ)かしてはいけないよ。騙(だま)してはいけないよ。
3
仏教のことを書いたってねえ。線香臭いと疎んじられるだけだろう。それに、その専門家でもないから、知識の正確さが欠如する。こちらも躊躇いがちになる。ときどき詩を書いているけど、詩の読者って、一般的に言って、少ないんだよねえ。川柳人口は多い。俳句人口も多い。短歌がそれに次ぐ。らしい。わたしの書くブログは、ニュース性に乏しい。面白みに欠ける。役に立たない。的外れのボール、ボール、ボールだ。アウトが取れない草野球のピッチャーだ。
2
芸能人のことを書いた週刊誌を倣えばいいか。スポーツ新聞のようなことを列べたらいいか。そうだとしても、テレビも見ないんだから芸能人に面識がない。誰が誰だかすらも分からない。キイキイキャアキャアを言ったためしがない。あんなふうに踊って騒いで泣き喚いて歌ったりする時代に育っていない。スポーツも音痴だ。それをごまかして知ったかぶりは出来ない。写真も載せられない。道は断たれている。
1
ふ。ふふ。ふふふ。このブログはあまり読まれない。残った記録がそれを明らかにしている。新しい読者ができたようでもない。書き始めてもう10年以上が経過している。それでも読者をキャッチできない。読めるようなことを書いていないからしょうがない。しょうがないと言えばしょうがない。それで諦めている。でも、でも、もう少し読んでもらいたいという色目も、・・・大事かもしれない。その色目が老爺に残っているか。読んでもらえるには、どんな内容にすべきか。
10
人に顔がある。美しいあの人の顔がある。顔がないと人は美しくなれないかもしれない。
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「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人あり。常に汝等の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ、看よ」
これは臨済禅師のお言葉。「一無位の真人」というのはわたしの中に棲息している仏陀だ。仏陀が我が赤肉の肉体を住処として、ここの面門より、日常茶飯事にも出入りしている。その面門こそは、この顔なんじゃないか。仏陀の通り道の顔を、大事に致すことにしよう。