<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

「おやすみなさい」の掛け声は、何が「やすむ」ことなのだろう

2019年01月17日 21時09分53秒 | Weblog

もうやすみます。「やすむ」というのは、わたしの場合は、寝るということです。「寝む」と書いて「やすむ」と読んでいいようにも思います。「休む」では、お昼の休憩に取られてしまいます。わたしの「やすむ」は、すうすうぐうぐう寝てしまうことです。寝ると脳が休みを取れます。そういう意味からすると、「やすむ」は、「脳細胞を休める」ので、「休む」としてもいいのかもしれませんが。

「おやすみなさい」の掛け声は、何処に掛ける挨拶なのでしょう。「あなたもおやすみになってください、わたしもやすみますから」の挨拶言葉ですよね、これは。うううん、わからない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしはそろそろギブアップを致します

2019年01月17日 20時58分02秒 | Weblog

ぶっだんさらなんがっちゃーみー。わたしは仏陀に帰依したてまつります。

このわたしではどうにもなりません。行く先行く先ことごとく行き詰まってしまいます。正しい答が出せません。

こうして長い間、わたしを押し通して来たのですが、ようやくようやく、無理があるのが分かってきています。

このわたしは、わたしが帰依し得る存在ではありません。そろそろギブアップを致します。これだけ老齢になってからで、無慚無愧の誹りを免れませんが、死ぬ前に、ギブアップをしておきたく存じます。

とうとう、わたしはわたしが帰依しうる存在ではありませんでした。ブッダンサラナンガッチャーミー。わたしは仏陀に帰依したてまつります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どちらを選択してもかまわないのである ラスト

2019年01月17日 20時52分49秒 | Weblog

我利我利亡者と我利我利亡者が対(つい)を組めば、相手を軽んじてかかります。その真逆の利他利他尊者と利他利他尊者が対を組めば、互を尊重し合います。しかし、いずれ、妄想妄念、観念の域を脱しているわけではありません。

どっちもどっちで、相譲れないのですが、どちらかというと、ギクシャクしないで済む方が楽なようにも思われて来ます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どちらを選択してもかまわないのである その4

2019年01月17日 20時49分03秒 | Weblog

相手の立場に立ってものごとを考えているか、いないか、そこだけの違いのようにも思われて来るのであります。もちろん、この老爺はすこぶる我利我利亡者ですから、とても相手の立場に立って物事を考えるようなことはしていません。それで失敗を重ねてきています。それでもなおもってその我利我利の我愛の考え方を捨てないでいます。それで一番傷ついているのもこの老爺です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どちらを選択してもかまわないのである その3

2019年01月17日 20時45分16秒 | Weblog

相手を軽く見るか。重く見るか。相手を下に見るか。上に見るか。相手を軽蔑するか。尊敬するか。相手を立てるか立てないか。こちらの我見がこれを決めているのであって、客観性は、そこにはあまり存在していないようにも思えます。どちらかを選択していていいようです。

我見というのは実に少量であります。盃に海を浮かべるようなものであります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どちらを選択してもかまわないのである その2

2019年01月17日 20時43分02秒 | Weblog

その真逆も起こります。Dさんからすると、Eさんの考えはヒマラヤの峰の高さに高く聞こえますが、Eさんからすれば、同じくDさんの考えは尊敬に値する考えであって、極めて貴重なのであります。釣り合いが取れています。第三者のFさんがここに現れて来て仲裁を取るまでもありません。他者への憧憬(しょうけい)は埋まらないのであります。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どちらを選択して生きてもかまわない その1

2019年01月17日 20時18分59秒 | Weblog

Aさんからすると、Bさんの考えは取るに足りない些事に聞こえますが、Bさんからすれば、同じくAさんの考えは愚かな考えであって、取るに足りないのであります。釣り合いが取れています。第三者のCさんがここに現れて来て仲裁をこころみても、この深い溝は埋まらないのであります。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中庸とは、丁度いいくらいということである

2019年01月17日 19時52分14秒 | Weblog

仏陀は中庸を説かれた。中庸とは、「丁度いいくらい」ということである。多すぎない。少なすぎない。適度ということである。「バランスが取れるくらい」ということである。一方に傾きすぎると、歩けないのだ。調節は大事だ。己に合った位を最高地点とすべきなのだ。

己の欲望を少なくすると、満足もそれに従って来る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

其処をあっという間に通り越してしまっている

2019年01月17日 19時50分45秒 | Weblog

お金持ちはこの世に無数にいる。しかし、その丁度いい位に収まっていられないでいる。せっかくの満足基準値に達したのに、欲望肥大で、そこをあっという間に通り越してしまっている。其処を超えると負を抱えることになる。哀れ哀れ、優位性はなくなってしまっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それは誤算である

2019年01月17日 19時43分41秒 | Weblog

お金持ちはこの世には無数にいる。しかし、みな、その丁度いいくらいというのを越している。多くなればなるほど、幸福が勝ると思い込んでいるが、それは誤算である。持ちすぎると厄介になる。厄介なのに人に分けてやれなくなる。

誤算だというのに、それに気付かなくなる。ただただ欲望肥大なために。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする