人の中に入るとこの老爺は疲れる。逃げて回るだけでも疲れる。逃げないで、人の中にいて相手に合わせる努力をしていると、なおさら疲れる。疲れが深刻になる。自然体でいればいいものを、それができない。力む。相手を退屈させるのは罪だと思ってしまう。おべんちゃらを言う。そのおべんちゃらを聞いていて、馬鹿馬鹿しくもなる。途端に沈黙する。沈黙が、相手を不快にしていることを知る。
疲れる。
一人でする草毟りがいい。黙々というのがこの老爺には、ほとほと性に合っている。
人の中に入るとこの老爺は疲れる。逃げて回るだけでも疲れる。逃げないで、人の中にいて相手に合わせる努力をしていると、なおさら疲れる。疲れが深刻になる。自然体でいればいいものを、それができない。力む。相手を退屈させるのは罪だと思ってしまう。おべんちゃらを言う。そのおべんちゃらを聞いていて、馬鹿馬鹿しくもなる。途端に沈黙する。沈黙が、相手を不快にしていることを知る。
疲れる。
一人でする草毟りがいい。黙々というのがこの老爺には、ほとほと性に合っている。
おお、くだらない。おお、おお、おお、くだらない。骨折り損のくたびれもうけ。よくあることだ。
世の中、想った通りにはいかないようにできている。想定以下というのは辛い。がっくり来る。でも、これでいい。
くだらないことをも受容する。その余裕を持っていさえすれば済むことだから。くだらないことをも、一気に呑み込んでしまう。
ぐるりと呑み込んでしまうのは、苦いお薬を飲むときも同じだ。水を多めにすれば、呑み込みやすいものだ。
1000年経ったら? うううう~ん。「わたし」というのは、何処へ行っているのでしょう? 何をしているのでしょう? どんな姿を採用しているのでしょう?
まったくいないのかもしれませんが、いるような気もします。1000年経っても、「わたし」というのは目覚めているような気もします。現象界に来て現象を起こしてはいないかもしれません。もう少し、レベルを上げた段階にアップして、そこに座を構えているようにも思います。進化向上を遂げていれば、ここまでくらいは到達できるというレベルです。
分身の術を駆使して、現象している「わたし」もいるのかもしれません。不動のベースキャンプにいる「わたし」もいて、そこで分身したわたしにあれこれ信号を送りつけています。・・・などというようなことを、ちょっと想定してみました。こういう想定をして、今夜の僕は「わたし」を楽しんでいます。1000年後のわたしですよ。いろんないろんな想像が楽しめます。
日が落ちました。今日はお寺の加勢で疲れました。気疲れです。で、早めの夕食を済ませました。晩酌も飲みました。焼酎1合をお湯割りして。たちまち、とろろろ~んとなりました。簡単にこうなります。単細胞でできているのでしょう。
家内が、お風呂が沸いていますよ~というものだから、裸になっていざ、お風呂場に入っていくと、と、と、と、水も溜まっていません。水が入っていないから、もちろん沸いてもいません。家内は、「あららら~」と言いました。「すっかりその気になってたわ。お風呂が沸いたって」というのです。一人思い込みです。そんなことはわたしにもあります。ぶるぶるぶるるる。わたしは慌てて、今脱いだシャツをまた着直しました。
ふふ。こんなこともあるんですね。怒ったりはしません。わたしもドジをよくするからです。
「こうしてご弔問に来た者は極楽行きだが、来ない者は地獄に堕ちる」という行(くだり)には反発を覚えてしまう。地獄行き、地獄落ちという台詞を頻発された。耳障りがした。阿弥陀如来の誓願は、「すべての人を無条件で浄土に迎え取る」ということである。仏法聴聞をするかしないかを条件とはしていないはずである。「地獄行き」「地獄落ち」を突きつけるのが手っ取り早いだろうが、脅し文句に濫用するのは、信仰を促すことにはならない、とわたしは思う。
いちゃもんをつけるのはよくない。わたしはもっと気楽に、鷹揚に、聞かねばならなかったのかも知れない。
死んだら皆が皆仏の国のお浄土に往生する。迎え取られて必ず必ず成仏する。何が何でも、安心をしていい。ここをよくよく言い聞かせてもらいたい。
お参りしているのはその殆どが高齢者である。老人は笑いが好きだ。説法僧は、老人の笑いを取ることに執心する。そうしないと皆寝てしまう。漫才師や漫談師を兼務する客僧の支持率がいい。言葉に妙な抑揚をつけて節談義にも及ぶ。盛んに笑いを取ろうとする。まあ、それはよかろう。笑ってやろう。でも、脅し説法は、わたしは好まない。往生浄土の阿弥陀仏の本願には、いかなる制約も掛かってはいないはずである。「掬い取って捨てない」のでなければ、本願とはならない。
先日お寺にお参りして聞いた説法の中に、「お寺に参ってくる者のある家はいつまでも繁栄するが、そうしないところは没落する」という放言があった。何度も話を行き帰りさせて、例を挙げながら、強調した。そうか、そんなもんかと思った。信仰とはそんなものか、繁栄と没落のためか、と思った。いささか臍を曲げた。言わんとするところは別にあったのだろうけれども。
今日は、檀家寺の奉仕作業に出る。ご正忌さん(=親鸞聖人ご命日の報恩講行事)の最終日である。我が小がこれを手伝うことになっている。家内達は連れだって8時前には出掛けて行った。台所の賄いの裏方さんをする。男衆は本堂に座って受付をすればいいらしい。檀徒は各戸1万円の負担金を奉納する。ほかに喜捨もすることになる。お米や野菜類もお届けする。我等がご先祖様方は何代も何代も是をなさってこられたのだ。お墓のある檀家寺を守ってこられたのだ。すべてが報恩であらねばならない、とされている。後片付けが済むのは夕方になるだろう。
ここまでの冠雪はこの冬初めてだろう。野山も畑も、家の屋根屋根も、葉を落とした木々も、庭の小径も道路も、すっぽり雪の布団をかぶっている。気温は氷点下に下がっている。八天山も山麓から山頂まで毛深い白いセーターを着こんでいる。左右に連なる山脈もそうだ。美しい銀世界だ。東の空から日が昇って来て、まぶしい光のシャワーを浴びせている。これに耐えられなくなって、まずは庭の梅の木が、枝から雪を滑らせてもとの裸になった。