<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

浜崎海岸のベンチに腰を掛けて弁当を食べた

2019年01月14日 18時13分18秒 | Weblog

11時過ぎからドライブに出た。4時頃に戻って来た。途中、小さなスーパーでお弁当を買った。豪勢に伊万里牛焼き肉弁当を。780円もした。

七山の峠を下りて浜崎海岸に出て、砂浜のベンチに座って食べた。気温12度。ジャンパーを着て防寒していたから、寒くはなかった。砂浜の先に白波が打ち寄せていた。ざざあざざあざざあと波音がした。鳶がひょろろろろろと鳴いて上空を旋回した。犬を連れて若いご夫婦が散歩を楽しんでいた。老女二人も足の訓練中。声を掛けて通られた。冬の海水浴場である。閑散として辺り全体が空漠という感じだった。

暫く其処にいて、北の方角に広がっている青い海を眺めていた。背後は松の生えている公園。でも、人影はない。風の音が、寂しがる松を慰めていた。

伊万里牛弁当は、値段だけ、もちろんおいしかった。食べ終わって、持参して来た一個の小さな小蜜柑を剥いた。

 

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今日は今日のわたしのブログを書いた

2019年01月14日 10時30分37秒 | Weblog

今日は今日のブログを書いた。これでわたしの今日は、十全になっている。満ちている、他事想念を混ぜ合わせなければ純一で満ちている。はずである。

洗濯物が洗濯物干し台に下がって、風に吹かれている。朝日がこれを照らしている。タオルや下着の白がまぶしい。快晴の大空。光が白い雲に跳ねている。

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今日を今日にする 今日を生きたことで満ちる

2019年01月14日 10時22分32秒 | Weblog

「現在は満たされていない」の色塗りに終始して現在を過ごしている。そうやって現在を浅い川にして、嘆き悲しんでいる。

「明日こそは満たされよう」などと、明日へ明日へと満足を先延ばしていて、とうとう満足が得られないで、死んでしまう。未来への賭け事は無功徳。いい加減止めたらどうだろう。

今日を今日にする。今日の中で満ちる。今日を生きたと言うことで満ちる。

 

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軸足はこれからにあるのではなくして 現在にある 

2019年01月14日 10時19分58秒 | Weblog

何になるのだ?

なんになるのだ、ということは? 「今は何にもなっていない」という自白に等しい。

これからに軸足があって、現在に軸足がない。浮いている。幽霊になって浮いている。

現在を生きているのだ、われわれは。では、「現在を生きた」ことで、すべてではないのか。それで満たされているのではないのか。現在ですっかり、十全に、満ちているのではないか。

 

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何かのために 誰かのためになっていたい という毒気が籠もる

2019年01月14日 10時16分30秒 | Weblog

さて、このわたしは? 武帝のような国家事業を為したわけではないから、もちろん比較にはならない。ブログに雑文を書いてきただけである。でも、「何かのためになっていたい」という毒気が籠もることがある。この毒気に己が窒息をする。

書くことによって、「せめて、己を向上させたい」「高い山の登りの一歩にしたい」「美しい山頂に出て、美しい日の出を仰ぎたい」というのも、紛れもなく、毒気だ。

 

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われわれは「・・・のために」を止めない

2019年01月14日 10時09分40秒 | Weblog

無功徳。なんにもならん。なんのためにもならん。ものはそれ自体で完結している。

およそ「・・・のためにする」というその「タメミズ=溜め水」は、濁り水なのだ。どぶなのだ。他者の功徳になんかなっていないのだ。濁り水は飲み水にはならない。

われわれはそれでも、「・・・のために」を止めない。明日のために、あなたのために、家族のために、社会のために、国家のために。・・・のためにの「為」が続く。無為にはなれない。澄みきった大空にはならない。

 

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刻々の現在で 刻々の完了 刻々の完結を見ている

2019年01月14日 10時03分46秒 | Weblog

なんになるか? なんにもならん。

この先に何かに「なる」のではない。

いま此処で「なっている」のだ。「なっている」その現在を呼吸しているのだ。

物事は、刻々の現在で、刻々の完了、刻々の完結を見ているのだ。

「なんいなるか?」「なにかになる」というのは、狐の尻尾なのだ。

 

 

 

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なんになるか なんにもならん

2019年01月14日 09時51分41秒 | Weblog

達磨禅師は、「無功徳」とのみ答えた。仏教興隆の実践をなした武帝はさぞさぞがっかりしたことであろう。褒めて貰えるかとばかり期待していたのに。

我我も亦然り。あらゆることを、「ただただ褒めて貰わんがために」成しているところがある。仏教隆盛のためにではなく、世の尊敬を我に集めんが為にというところがある。我らが胸の内は、俗気紛々で、臭気が籠もっている。

 

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なんにもならない ということ その1

2019年01月14日 09時41分51秒 | Weblog

無功徳。むくどく。

達磨禅師は、梁の武帝にそう答えた。「功徳にはならない」「なんにもならない」と。

武帝は仏教を尊んだ。寺院を建てた。仏塔を建てた。僧を供養した。で、達磨禅師に褒めて貰おうとした。禅師は褒めない。腹を煮やした武帝が、「これだけの善事を成しているのに、あなたはわたしを褒めない、それはどうしてだ?」と詰め寄った。

禅師は「無功徳」とのみ答えた。武帝はさぞがっかりしただろう。

 

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わたしのブログは猫の鳴き声 にゃあにゃおブログ

2019年01月14日 09時31分56秒 | Weblog

猫が来ている。ガラス窓の外の濡れ縁に来ている。朝日が此処を温めている。にゃあにゃおと甘い声を出している。遊んでくれということらしい。「にゃあにゃお」と鳴き真似をして遊んでやる。遣り取りはひとしきり続く。その内、猫に飽きられる。

わたしのブログもこの猫の「にゃあにゃお」なのかもしれない。そしてそろそろ飽きられているのかもしれない。わたしのブログは「にゃあにゃお」ブログなのだ。遊んで欲しい遊んで欲しいの、猫の鳴き声なのだ。

 

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