足の骨が全体重を支えている。両足裏の三点でうまく支えているらしい。なんとも不思議だ。土踏まずの空間が重要な役割をしているらしい。
立ってみた。立っていた。不思議がってみる。床に立っている素足を神さまの足のように見ていた。がちゃりがちゃり。組み合わさった足骨の無音を聞いてみた。
足の骨が全体重を支えている。両足裏の三点でうまく支えているらしい。なんとも不思議だ。土踏まずの空間が重要な役割をしているらしい。
立ってみた。立っていた。不思議がってみる。床に立っている素足を神さまの足のように見ていた。がちゃりがちゃり。組み合わさった足骨の無音を聞いてみた。
シューベルトのセレナードを聞いています。僕はこれでいい気持ちになります。聞いているだけでこうなりますから、簡単。いい気持ちになったから、だからどうだってこともありませんけどね。そこがいいんでしょう。ひとりがこれで埋まる。ひとりの空間が埋まる。
さぶろうは弱い人間である。弱い人間だからだろう、暴力が嫌いだ。強い人間だったら、暴力を好きになつていたのかもしれない。しかし弱い人間に生まれた。暴力を憎む人間でいなければならなかった。弱い人間に生まれてよかったと思う。暴力を揮わずにすんだことを感謝している。暴力を揮われて悔しい思いをしたけれど、人にそういう嫌な悔しい悲しい思いをさせることはなくてすんだのである。
暴力を揮う人間が強い人間だとは思わない。暴力という卑怯な手段に打って出ることはほんとうに強い人間のすることではないからである。夫が妻を殴ったり親が子を叩いたりするのは見苦しいことである。大国が小国を戦争という暴力で踏みつけることは正義ではない。正義に反したことである。脅すことも脅されることも、互いに神の子、仏の子どうしの仲で、あってはならないことである。
先生はもうお年を召しておられた。奥さんとも別れておられた。晩年は洞窟の宮本武蔵のように清貧にしておられた。良寛禅師の住む五合庵のように狭い藁屋根の侘び住まいだった。そこは和紙漉きの集落であつたので、その頃はもっぱら和紙に絵を描いておられた。痩せて飄々としておられた。既に病を得ておられたのかもしれない。さぶろうを訪ねて来られた年の年の暮にはおなくなりになられた。
さぶろうはあの時どうして先生をお上げしてもてなさなかったのだろう。淋しくて会いに来られたのだ。さぶろうを選んで会いに来られたのだ。どうして先生にご酒を差し出せなかったのだろう。それが悔やまれてならないのだ。しかしもうあの世でしかお詫びができない。先生はあの日、さぶろうが拒絶をしてしまった日、どんなお気持で帰り道を帰られたのであろう。