夕食は生牡蠣だった。摺り大根をどっさり泳がせて、それにポン酢を垂らして、するりするり喰った。うまかった。もう一品あった。焼きピーマンと一緒にカマスの塩焼きが細長の皿に盛られていた。これは半分を残してしまった。白ご飯は口にしなかった。老体は過食ができない。
「白隠禅師座禅和讃」は「寂滅現前する故に、当処即ち蓮華国、この身即ち仏なり」で締め括られている。
さぶろうはこれをこう解釈してみた。
「目の前に仏陀が悟ったあの寂滅道場(涅槃界)がまさしく出現しているのだ。こうしてここがそのまま仏の浄土(涅槃界)になっているのならば、ここにいるわたしこそがそっくり仏になっているはずである」
ここは寂滅為楽(寂滅を以て楽土と為す)の道場である。その準備はすべて整っている。あとはさぶろうがそれをそう受領すればそれで一切が完了するのである。
蓮華国とは華厳経に説くところの蓮華蔵世界、仏の悟りの世界だろうか。それがどこか別個にあるわけではない。ここだ、とすればここになる。ここだとしたら、ここに居る者が仏に成る。
ここは花(華)の咲く世界である。これは間違っていない。春夏秋冬、百花繚乱している。ならば、こここそが蓮華蔵世界(花々を宿している世界)なのではないか。余所へ出掛けて行く必要はない。ではなぜ百花繚乱しているか。現前している仏の国を荘厳(しょうごん=飾る)するためである。
仏に成って仏の眼で見ればここはどう見えているか。ここは間違いなく蓮華国に見えているはずである。
身体の欲望を満足させると魂はこれに協賛していっしょに満足を覚えてくれるか。覚えてくれるとしたら一挙両得だ。これなら二人三脚ができる。でも、身体の欲望と魂の欲望とは果たしてそううまく一致しているかどうか。ずれていたらどうなるだろう。
身体の欲望の第一は空腹を満たすという欲望である。おいしいものを食べる。すると身体は即満足をする。これは胃袋で分かる。しかし、それと同時に魂が満足をしているかどうか、これは怪しいところだ。胃袋は満ちていても魂は空腹のままという場合もありそうである。そうなると厄介だ。玄関は一箇所なのに、台所を2箇所も用意しなければならなくなる。料理方はタイヘンだ。
愛も食事である。しかしこれにはさまざまな種類がある。身体が認める愛のレシピと魂が認める愛のレシピにずれがある。格差がある。そしてどちらかがどちらかの愛を否定してかかる。だから、相手の見ていないところでこっそり満足させてあげるということにもなる。
魂の食事はよろこびという食事である。法華経には法喜食(ほうきじき)、禅悦食(ぜんねつじき)というよろこびの食事のことが書いてある。これは仏さまの食事と言ってもいいだろう。法(ダンマ=宇宙界の真理・法則性)を喜ぶという食事と禅(こころの平安=涅槃=ニルヴァーナ)を悦(よろ)こぶという食事である。魂の食事も、その他、甲乙丙丁、メニューに書けないほどいっぱいあるだろう。
これを身体はよろこんでくれるかどうか。「そんなものではおれたち(身体の諸器官)は毫もよろこんでいないよ」などといって白けきっているかもしれない。いや案外「あなたがた(魂)がよろこんでいるのなら、そりゃお目出度いことでございます。わたしどもも一緒にお祝いに駆けつけましょう」と賛同してくれるかもしれない。
だったら身体と魂とは同レベルの方がいいということになるが、それでは全体の生命の進歩が望めそうにない。どちらかが数歩をリードしていてくれて、行く先に駅を作ってそこまでのレールを敷いてくれていると進歩が早くなる。「こっちだ、こっちだ」というふうにして。
*
さてここまでを書いてみたがどうもうまく終わりに辿り着けない。さぶろうは両者のちぐはぐに悩んでいるのだ。どっちかがすぐに不満をぶちまけるから困っているのだ。身体の欲望を優先していると魂がクレームを付けてくる。魂の満足を先行させていると身体がこれに価値を示さずむしろ抵抗を示してくる。それで困った困ったなのだ。
ブロッコリーを種から蒔いて見守っていたけれど、こう寒くなると成長が止まってしまうらしい。まだ20cmほど。小さいまんまだ。その代わり虫もつかない。食い荒らされていないので全身の緑色がきれいだ。春になってあたたかくなると成長が望めそうだが、そうなると植物はどれも小さいままでたちまち花を着けて、次世代移行を急ぐ。自分の代を犠牲にするのだ。ということは、植え付けの時季が遅くなると、収獲は難しいということだ。だから無収獲はこちらの怠慢ということになる。それで収入を得ようという企画心はないので、それはそれでいいのだが、自分の代を犠牲にする植物に対しては詫びねばならぬような気がするのだ。たとい遊び心で農作業を始めたとしても。
消災妙吉祥陀羅尼(消災呪)
しょうさいみょうきちじょうだらに(しょうさいじゅ)
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のーもーさんまんだ。もどなん。おはらーちいことしゃ。そのなんどうじーどう。えん。ぎゃーぎゃー。ぎゃーきーぎゃーきー。うんうん。しーふらーしふーらー。はらーしふらーはらしふらー。ちしゅさーちしゅさー。ちしゅりーちしゅりー。そわじゃーそわじゃー。せんちぎゃー。しりえいそーもーこー。
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これは禅宗の寺院で唱えられる陀羅尼の一つである。陀羅尼(真言=マントラ=呪文)は仏さま方の言語だから、音でしかあらわせない。音韻(音の放つ響き)に仏界のエネルギーが宿っている。これを声に出す。口まねする。真似て仏さまになったふりをする。仏さまにつながることを願う。
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でも、おおよそこんな意味らしい。(鎌田茂雄・桜田秀雄訳を参照)
不滅の教えを説かれた一切の仏たちに帰依いたします。オーン。
虚空よ虚空よ、災いをことごとく飲み尽くしてください。フーン。フーン。炎よ炎よ、災いをことごとく燃やし尽くしてください。幸(さき)くあれ。幸くあれ。
星よ星よ、現れてください。現れてください。災いが消え去って、ここを安らぎの世界としてください。スヴァーファー。
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陀羅尼(ダーラニー)はここではどうも見上げる虚空や星々へあてた願いのようである。大宇宙との対話のようである。
オーン。フーン。フーン。スヴァーファー。音声と音声との響き合いのようである。
仏さまが発する陀羅尼のオーン、フーン、フーン、スヴァーファーが耳の奥に届いて来るとそれをさぶろうがブーメランのようにオーン、フーン、フーン、スヴァーファーと返す。虚空にこれが響き合う。「大宇宙とわたし」を繋ぐモーターが、こうすることで目覚めたようにして動き出す。唸って轟いて発動してくる。さぶろうは大宇宙と同じくらいのスケールの大きさを身に帯びる。すなわち、宇宙を大向こうにして一対一で対座しているということだ。いや、みみっちい、みすぼらしいさぶろうだが、おっとどっこい、尊きかな尊きかな、大宇宙の分身であったと言うことを再確認するのだ。
この2、3日、ジョウビタキが来ない。どうしたのかなあ。山に雪が積もったからかなあ。さぶろうのことなど疾うに忘れてしまったのかなあ。窓の外にぴっぴっぴ、ぴっぴっぴの小鳥の愛嬌が聞こえない。
「帰依仏竟 帰依法竟 帰依僧竟」
きえぶっきょう きえほうきょう きえそうきょう
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仏に帰依しおわりました
法に帰依しおわりました
僧に帰依しおわりました
*
「三帰依文」はこう締め括られている。帰依とは南無することである。帰順することである。我見を排除してしまうことである。相手のこころに成りきることである。
*
ここで今日仏さまにお会いできましたからもう安心でございます。
仏さまの指し示された真理世界(真如界)をこの目で見せていただきましたのでもう安心でございます。
仏さまに帰順する人たち(僧=サンガ)の安心の様子をしかと確認しましたのでもう安心でございます。
常・楽・我・浄 じょうらくがじょう
これは「延命十句観音経」に出て来る一偈である。
鎌田茂雄・桜田秀雄共著「お経 禅宗」ではここをこんなふうに現代語訳してあった。
・・・この悟りの世界は永遠に変わらないから常であり、苦しみがないから楽であり、他に拘束されないから主体性があり、煩悩がないから浄(きよ)らかであります・・・
つまり悟りの世界の特性をこの4つの語で表現してあるようだ。悟りの世界は煩悩の世界の対極にある。さぶろうの居るこちらが此岸で向こうが彼岸にあたる。ここへは船で渡っていかねばならない。渡し守は観音さまである。渡って行ったところにこの4つの燈明が輝いている。
こちら岸は不常・不楽・不我・不浄である。向こう岸は常・楽・我・浄である。
やがてわれわれは一人残らず向こう岸に渡って行く。心配はいらない。向こう岸こそが親の里、生まれ故郷だからである。これが約束されている。われわれには三世に亘る仏心(仏さまの心=仏に成る心)が埋め込んであるからだ。もちろんガイドしてくれるのは観音さまだが。
仏の国、浄土では、「不常=無常」はひっくり返されて「常=永遠」に転じ、「不楽=苦」はぐるりと反転して「楽」になり、「不我=浮き草」の葉は表を見せて「我=主体者としての目覚め」となり、「不浄=煩悩=間違った受け取り」は正されて清浄の菩提心=悟りとなる。まるでオセロゲームのように。もともとの面の表に返してくれるのは観音さまである。
*
「さぶろうよ、さぶろうよ」と呼びかけてくる呼び声の方に耳を傾ける。「さぶろうよ、さみしがっているさぶろうよ、もうすぐさみしがらなくてすむようになるんだよ」と呼ぶ声がする。真夜中の午前2時半、さぶろうは薄目を開けてみた。
常・楽・我・浄 じょうらくがじょう
これは「延命十句観音経」に出て来る一偈である。
鎌田茂雄・桜田秀雄共著「お経 禅宗」ではここをこんなふうに現代語訳してあった。
・・・この悟りの世界は永遠に変わらないから常であり、苦しみがないから楽であり、他に拘束されないから主体性があり、煩悩がないから浄(きよ)らかであります・・・
つまり悟りの世界の特性をこの4つの語で表現してあるようだ。悟りの世界は煩悩の世界の対極にある。さぶろうの居るこちらが此岸で向こうが彼岸にあたる。ここへは船で渡っていかねばならない。渡し守は観音さまである。渡って行ったところにこの4つの燈明が輝いている。
こちら岸は不常・不楽・不我・不浄である。向こう岸は常・楽・我・浄である。
やがてわれわれは一人残らず向こう岸に渡って行く。心配はいらない。向こう岸こそが親の里、生まれ故郷だからである。これが約束されている。われわれには三世に亘る仏心(仏さまの心=仏に成る心)が埋め込んであるからだ。もちろんガイドしてくれるのは観音さまだが。
仏の国、浄土では、「不常=無常」はひっくり返されて「常=永遠」に転じ、「不楽=苦」はぐるりと反転して「楽」になり、「不我=浮き草」の葉は表を見せて「我=主体者としての目覚め」となり、「不浄=煩悩=間違った受け取り」は正されて清浄の菩提心=悟りとなる。まるでオセロゲームのように。もともとの面の表に返してくれるのは観音さまである。
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「さぶろうよ、さぶろうよ」と呼びかけてくる呼び声の方に耳を傾ける。「さぶろうよ、さみしがっているさぶろうよ、もうすぐさみしがらなくてすむようになるんだよ」と呼ぶ声がする。真夜中の午前2時半、さぶろうは薄目を開けてみた。
一晩、雨の音がしていた。布団の中から耳が出てこれを聞いていた。耳に雨音を聞かせていると朝になっていた。透明ガラスの向こうに洗濯物干し台があって、そこに丸い雫が宝珠を作って垂れている。雨は上がっているが、視界には靄がかかってぼんやりしている。朝の光が昇ってきて金柑を照らしている。葉末葉末の水滴にクリスマスの飾り付けのように光のイルミネーション。イルミネーションに灯された小さな舞台で、さぶろうとさみしさとの対面の時間が幕開けする。