われはその身、小なりといえども、法界万象を盛る器なり。わが精神は、内に隠るといえども、法界万象を映す鏡なり。こはただただ仏とともに常住する我の、神通功徳のしかあらしむる自然(じねん)の現象なり。空に雲行き、風流れ、山は立ち上がって自尊し、海は広がって自在す。こはわが身心をあたためて止まざるなり。
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もろもろの仏土(=法界)を見んと欲すれば明王(=不動明王)たちまちに出現して行者(=仏語であるところの陀羅尼を唱える者)を頂戴してこれを見せしむ。・・・持するに随(したが)って決定(けつじょう)の妙果を証せん。・・・かくの如きもろもろの功徳はわれ(=金剛手菩薩)讃すれども尽くすこと能わず。(不動尊秘密陀羅尼経より)
読経しながら「行者を頂戴してこれ(仏土=仏の建設した国土)を見せしむ」のここへ来る。ここを瞑想する。すると、親が子を抱きかかえるようにして、「さあよくご覧」と言いつつ見せてあげるようなそんなシーンが連想させられる。明王は仏陀世尊を敬うが如くにして行者に事(つか)える、とも陳べてある。するとその妙果(=よい結果)として実現した決定事項(仏土を見ること)がおのずからに証明される、というのだ。この功徳(=仏土を見たということ)は賞めても褒めても讃歎し尽くすことはできない。
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ここを仏土と見る。話はそれだけのことだ。それだけのことが、しかし、できぬ。地獄の鬼のさぶろうは、足下の地獄を仏土と見ることができないのだ。地獄に居ることでそれでやっと仏土を見やすいように仕組まれているのだが、そのからくりが読み解けないのだ。「仏土に居て仏土を見る」までには相当の修行をした後、精神のレベルが格段に上がってからのことだ。
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われはその身、小なりといへども、法界万象を盛る器なり。器に非ずといふことなし。法界万象の方から歩いて来てそれをわが小なる器に盛って見せしむるなり。いまだ証拠せざる者(=それがそうだと納得できぬ者)は見よ見よ見よ。空を見よ雲を見よ風を見よ。山を見よ海を見よ。この法界(仏界)の住人である我を見よ。
みすぼらしいさぶろうだ。洟を垂らしたみすぼらしいさぶろうが、しょぼくれた眼をして空を仰いでいる。風に仏法を聞こうとしている。