今日は外気温が温かくなってから外へ出て、ジャーマンアイリスの球根を長方形の底厚プランターに植え込んだ。そこから3mほど離れたところにも蜜柑を突き刺した竹の棒を立てていたら、目白たちは群を作ってきて代わる代わる啄みにやって来た。野良着を着たさぶろうは目白に恐れを感じさせないように、できるだけ笑みを浮かべ穏やかな顔をして見せた。啄んだ目白はその隣の椿の木の藪に入って行き、そこできゅるきゅるきゅるきゅると高鳴きをしてさぶろうの耳を楽しませてくれた。さぶろうにはそれが有り難う有り難うと代わる代わる言ってくれているように聞こえた。庭はいきなり目白たちの銀座になった。いったい何家族が揃っていたのだろう。4時になると日が落ちてひんやりしてきた。「きみたちもう寒いから、山へお帰りよ」さぶろうはそう言うのだが目白集団は容易に御輿を上げなかった。
ああ、いい天気だ。気温も上がってきたぞ。ちょっくら外へ出てみよう。
こういうときに誰か気の合う仲間がいて、おおいと声をかけたら即、やあと応じて飛んで来てくれたらいいだろうな。
でも、さぶろうは超のつく我が儘者だから、自己主張が激しくて、こうして会ってみたところで、いいムードはなかなか続かない。平和を破るのはさぶろうの方だ、きまって。
彼は協調性に乏しい男だ。これはよいことではない。修正を加えようとしているのだが、それすら面倒になってくる。で、結局は一人で居る。空想や瞑想を楽しんでいる。こうしているのが無難で気楽だから。
やっとこそさ、相手をしてくれるのは、だから、人間以外と言うことになる。風とか雲とか空とか遠くの山だとか。
うううん、どうしたらいいんだろうな。人間の規模、スケールがうんと小さいんだろうな。だと判断したら、スケールを拡大したらいいのに、実践をしない。おいそれとそうできないとしても、だ。
人間と付き合いをする、これがその実践にあたるだろう。一人酒ではなくてわいわいがやがや仲間酒でもしたら、突破口になれるかもしれない。わいわいがやがやの気分まで持ってくるまでに、しかし、潰えて萎えてしまうのがオチだ。
さぶろうよ、来年こそはもっと胸襟を開いて人の中に入って行こうじゃないか。コーラスや詩吟、謡曲などの趣味の会でもいいじゃないか。そこで愉快を覚えようじゃないか。どうだい?
老体だから、遅すぎる? うん、そうかもしれないな。
目白が山から下りて来て我が家の庭先の梅の木の枝に刺した蜜柑を啄んでいます。これを眺めて楽しんでいます。
昨日は近くの竹藪に入って(持ち主にお断りを入れて)女竹を数本切ってきました。ここにも半分に割った蜜柑を次々に刺しました。これがずらりと林立しています。だから、空を飛んでいく小鳥たちには一目瞭然のはずです。
「さぶろうの家の庭に行ったら、獲物にありつけるらしいぞ。おい、みんな、出掛けてみようじゃないか」山中(やまじゅう)の小鳥たちが伝言をし合っています。「よし、行ってみよう」彼らはさぶろうの家までやって来ました。その通りでした。熟し柿も用意しています。
屋根にはまだ霜が張っていて朝の光に照らされています。空気は鼻をつんと刺すほどに冷たいです。冬空は雲もなくよく晴れています。さぶろうは暇ですから、一日ずっと暇ですから、その間これといってすることもなく、ぼんやり山の小鳥たちの訪問を眺めています。
わたしは宇宙に愛されています。宇宙全体がこぞってわたしを愛しています。これはわたしがこの宇宙に生まれてそしてここで愉快に楽しく生活をしているということがその実証です。もちろんわたしもその愛に応えて、精一杯宇宙を愛しています。互いに頬摺りをして触れ合っています。相思相愛の仲ですから、両者の間柄は実に円満です。ここがよろこびの宇宙であることは間違いがありません。この明快な把握はさぶろうを朗らかにします。元気にします。
ふっふっふ。もちろんこの宇宙に生きている生き物たち(仏教の言う衆生、有機物も無機物も含めて)が宇宙の主人公ですから、もっと有り体に言うとわたしは人々から愛されています。虫魚鳥獣、山川草木、大地、風、雲、空の全体に愛されています。愛されているばかりではありません。わたしもそれに負けないくらいの愛を感じてこれを放射しています。愛を感じるということはわたしの内なる宇宙によろこびが湧いているということと同義です。