「白隠禅師座禅和讃」は「寂滅現前する故に、当処即ち蓮華国、この身即ち仏なり」で締め括られている。
さぶろうはこれをこう解釈してみた。
「目の前に仏陀が悟ったあの寂滅道場(涅槃界)がまさしく出現しているのだ。こうしてここがそのまま仏の浄土(涅槃界)になっているのならば、ここにいるわたしこそがそっくり仏になっているはずである」
ここは寂滅為楽(寂滅を以て楽土と為す)の道場である。その準備はすべて整っている。あとはさぶろうがそれをそう受領すればそれで一切が完了するのである。
蓮華国とは華厳経に説くところの蓮華蔵世界、仏の悟りの世界だろうか。それがどこか別個にあるわけではない。ここだ、とすればここになる。ここだとしたら、ここに居る者が仏に成る。
ここは花(華)の咲く世界である。これは間違っていない。春夏秋冬、百花繚乱している。ならば、こここそが蓮華蔵世界(花々を宿している世界)なのではないか。余所へ出掛けて行く必要はない。ではなぜ百花繚乱しているか。現前している仏の国を荘厳(しょうごん=飾る)するためである。
仏に成って仏の眼で見ればここはどう見えているか。ここは間違いなく蓮華国に見えているはずである。
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