「こちらからは何処にも出て行かぬのだからなあ。向こうから届けられるもので間に合わせないとなあ。だなあ。だなあ」ここはさぶろうの独白。
「さぶろう、今日が今日お前のよろこんでいるものは何だ?」それを聞いて問いを発したのは風神である。雲を動かしている風の神さまである。
「こちらが外へ出て手にするものはございませぬ」
「だろうな。行くあてもないのだからな」
「へえ、そういう次第で向こうから届けられるもので間に合わせないといけませぬ」
「ほお、向こうから届けてもらうほどにお前はそんなに奇特なのか?」
「へえ、奇特であります」とさぶろうは答えた。所有してもいず、所得しにも行かぬのであれば、届けてもらうしかないのだ。頂くしかないのだ。そしてそうしてもらっているのだ、と。
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さぶろうはここへ「以仏神力 利益衆生」の偈を持ち出して来た。これはこう読まねばならなかった。「仏の神力を以て衆生を利益(りやく)すべし」 仏さまがお前さんに神力を提供してくださるとお申し出だから、行って勇気をふるって衆生を利益して来なさい、と。衆生を利益するというのは利他行動のことである。利他の積極実践である。
彼はこれをひっくり返した。自分をその利益を頂く側に立たせてみた。すなわち、多くの衆生がさぶろうを利益してかかっているはずだと推測してみたのである。自分は衆生の一人だから、仏の神力でもって利益をしてもらっている、と受け身に解釈したのである。彼は是を「消極実践」と呼んだ。受領することも実践である、と。
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それにしてもさぶろうがよろこんでいることは高が知れている。外へ出て行って活躍している人たちのそれと比べたら、微量だ。みすぼらしいくらいだ。で、彼はこれを嘗めるようにして味わった。味わうというそこの部分を手厚くした。これが奇特の内容だった。さぶろうは縁側で日向ぼっこをしていた。光が彼の足下に届いて彼をあたためた。