春菊がおいしかった。鍋料理に載せてあった。ああ、おいしかった。この春菊はわれが畑に植え付けておいたものである。われもやるじゃないか。春菊の功労をわが功労にしてよろこんだ。わが胃袋に収まった春菊氏は、いまごろどうしているやら。わが胃袋に収まってからでわれに貢献をすることを最大の望にしているのかもしれぬ。偉いやっちゃ。われに貢献をするとは具体的にはわれを今までにも増して健康にするということである。彼の利他の実践によってわれはその温情によってぬくぬくをしておられる。実践とはすさまじい。
春菊がおいしかった。鍋料理に載せてあった。ああ、おいしかった。この春菊はわれが畑に植え付けておいたものである。われもやるじゃないか。春菊の功労をわが功労にしてよろこんだ。わが胃袋に収まった春菊氏は、いまごろどうしているやら。わが胃袋に収まってからでわれに貢献をすることを最大の望にしているのかもしれぬ。偉いやっちゃ。われに貢献をするとは具体的にはわれを今までにも増して健康にするということである。彼の利他の実践によってわれはその温情によってぬくぬくをしておられる。実践とはすさまじい。
既に仏の安養(あんにょう)の浄土に着いているのだから、もう何処にも行きようがないぞ。ここに腰を下ろしてどっしり構えていよう。
着いたぞ着いたぞ、彼岸(仏の国)に着いたぞ。もう心配はいらない。これでよし。
渡るというとこちらから向こうへという動作・運動が必要です。でも、渡らずして渡るという奥の手もあります。これは回向とも言えます。ぐるりと回し向けることです。転(てん)の用です。相手をこっちへ渡らしてくると、渡ったことと同じ効果が出ます。
仏の国に渡る=仏をこちらに渡らせて来てここを仏の国にする=仏の浄土をわたしのこころに建設する=穢土に居て自在無礙となる=行こうと思えば何処へでも行ける=求めることがないから何処にも行きようがない。
ふっふっふ。さぶろうはあちこちの温泉へ行って逗留するのが好きである。何処にも行かないでいいと決めてもらうと困るんだよなあ。家に籠もって自堕落しているよりもこれは気晴らしにもなる。
我が住む大宇宙は無限大である。広々としている。広々とした無限大宇宙もわが一軒家である。遠慮はいるまい。ここを仏さまたちといっしょに自在無礙に旅して戯れていようじゃないか。
般若心経の締め括りのマントラ「ぎゃあーてー ぎゃあーてー はーらーぎゃーてー はらさんぎゃーてー ぼでいそばふぁ」を臨済宗の山田無文老師はおおよそこんなふうに解釈を施しておられたように記憶しています。「着いたぞ 着いたぞ、さあ、着いたぞ、もう心配はいらない さあ、これでよし」さあ、これでよし、というのは安心ですよね。大涅槃ともいいます。
どこへ着いたか。仏さまの国(=こちら側からすれば彼の岸、向こう岸)へ着いたのである。こちら側の岸に居ながらにして仏の国(安心の国)に渡ってしまうわけです。
いえいえ、厳密に言えば、到彼岸(ぱーらみたあ)するには六波羅蜜といってそのための修行方策も立ててあります。すなわち布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の6つの修行法です。これを言い出せば難しくなってしまいます。「おれにはできぬ」「やあめた!」になります。
修行も経験していないど素人のさぶろうが涅槃界渡し船案内のことなど口することではないかも知れないけれど、「ほんの暫くその気になってみる」それもパーラミタアの1000分の1にくらいにはなれそうだと思います。
真言マントラは陀羅尼(ダアラニー)とも言います。呪文の呪(じゅ)とも言います。仏さまがお遣いになっている話し言葉です。仏さまでないと理解ができません。ですから、人間後には通訳不可能です。で、そのままの音にしてあります。音の出す響き、音韻に力が籠もっています。
「もう心配はいらない。これでよし」は悟りですよね。大悟徹底した成仏です。ここへ案内をして来ようとしているのですね、きっと。
1,おれはこうやって仏さまの智慧を授かったのだからもう心配はいらない。これでよし。もうぐらぐらしないぞ。
2,おれはこうやって仏さまの加護を受けているからもう心配はいらない。これでよし。もう不退転でいい。
3,おれは居ながらにして仏さまの国に住んでいるのだからどこにも行きようがないではないか。心配はいらない。もうどっしり構えていていいんだぞ。
暫時、なったふりをすればいいのです。pretend to~です。make believe~です。ひとり、仏さまになったふりをすればいいのです。即身成仏(そくしんじょうぶつ)はこの身このまま即座に仏と成ることです。そんなサーカスのような芸当はできませんよね。でも、なったふりをするだけでいい気持ちになれます。
仏さまに成ったらこの世がどう見えているか、さあ、トライをしてみましょう。座を調えて瞑想をしてトライしてみましょう。すると不思議や不思議、仏様の側から仏のハタラキである三密加持が加わるでしょう。もともと万人具有している仏心が働き出してくるってこともあり得ます。
この世で毎日さんざん手こずっていたようなことでも、「そんなことには拘らなくてもよかったんだあ。なあんだ」という呟きがもれるかもしれません。それから仏に成ればきっと相手も仏さまに見えてくるかもしれませんね。いやいや本当の仏さまになったわけではありませんから、そうそう上手くはいかないかもしれません。
ふりをするなんておまへはペテン師だ。ペテン師? だろうな。仏を騙(かた)るたあ重罪だぞ。へへええ。
仏さまの眼はレンタルできます
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仏になるまでの間は借り受けがかないます
これは仏さまの側からの申し出なので遠慮は無用です
もちろん貸出料は無料です
借りたらよろこばれるのでおつりがもらえます
たくさんたくさん無際限にもらえます
その1,恐がらなくてすむようになります(仏さまは恐がったりはなさいませんから)
その2、安心がもらえます(仏さまは安心できることを悟られた方ですから)
その3、悠々自適な暮らしができます(仏さまに不満がありませんから自適ができます)
その4,あたたかいこころでいられます(仏さまはあたためるお仕事をされていますから)
その5,よろこびという仏の食べ物がおいしく食べられます(仏さまの食べ物は遠慮なしに誰でも食べていいのですから)
菩提薩埵(ぼだいさった)般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)に依るが故に心に罣礙(けいげ)なし。罣礙なきが故に恐怖(くふ)有ることなし。一切の顛倒(てんどう)夢想を遠離して涅槃(ねはん)を究竟(くきょう)す。(「般若心経」より)
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恐怖に罣礙せず。恐怖させようとする恐怖に相手をしないで済むので無罣礙でいられるのである。恐怖にとっ捕まるのはこちらが好きこのんで相手をするからである。恐怖させるのはわがこころの疑心である。暗鬼である。恐いかも知れないぞという期待心である。顛倒の夢想を実体あるものとすると、認められたものとしてそれが大きな顔をし出す。
顛倒はひっくり返ったということ。ものを逆さまに見ていることだ。菩提薩埵・般若波羅蜜多は仏の智慧のことである。仏の智慧で見るとこの世はどう見えているか。仏の眼を借りてくればそれが分かるはずだ。レンタルだけど、仏は喜んで貸し出しに応じてくれるはずだ。涅槃は寂静。ニルバーナ。大悟徹底の安心である。仏の眼で見れば、頓着しているものはすべて空(くう)の空(くう)、色の空、空の色である。
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ぎゃあーてー、ぎゃあーてー、はーらーぎゃーてー、はらそうぎゃーてー、ぼでいーそばふぁ。これは真言マントラである。仏さまの世界の言葉である。般若心経はこれで締め括られる。これを唱えることで、仏の眼を借り受けることがかなう。仏の眼を借りている間は、堂々の仏そのものである。波羅蜜多はぱーらみった。仏の国、つまりこちら側からは彼岸対岸にあたる。そこまで声の舟(真言マントラ)が乗せていってくれる仕掛けだ。マントラは主語の言葉、総持ともいう。これで唱える者を護って彼岸に導いてくれる。
テッポウユリの球根を買ってきた。2球1袋で350円だった。これを4袋。袋の中ではすでに新しい芽が伸びてきていた。伸びてきた5cmほどの芽の、青さが鮮烈だった。さぶろうは窮屈な袋を破いてあげた。テッポウユリは両手を伸ばして大きく伸びをした。小雨も止んだのでさぶろうは花壇に出た。土を球根の3倍ほどに深く掘って施肥をしゆっくり安定の位置に付かせた。ご恩は忘れません、春には精一杯大きな美しい花を咲かせてご覧に入れます、と彼女たちがこぞって囁いた。囁きをさぶろうはしっかり耳に受け止めた。
苦しみがゴールなのではありません
ここは超えていくべきところで
ここを超えて行くと新しい風景が開けるのです
ここを通っていかないとどんな美しい風景だって見過ごしてしまうのです
ここで苦しんでおかないと驚きがないのです
この苦しみは向上のための苦しみです
ここで苦しんでおかないとよろこびがつかめないのです
ここはそういうわけでとても重要な地獄です
ようこそさぶろうさま
あなたは選りすぐられた超エリートです
誰でも苦しめるわけではありません
地獄は誰でも来られるところではありません
さぶろうが難渋している地獄の3丁目にこんな立て札が立てられていた
さぶろうは
ふん いい加減な嘘をついたらあと顎をしゃくった
幸福者は、しかし、受け取っているその幸福を、おいしくおいしく噛みしめることができない、なかなかにできない。それでもって歓喜の頂点に長く居座るのはさらに難しい。それを当然だと思ってしまうからだ。それだけの幸福を受領するのだけの価値を有しているとして、幸福を高く大きく評価できないからだ。分に過ぎた幸福として押し頂けないからだ。
これができる者も居る。幸福に居て幸福を噛みしめ得る者もいる。この者は相当の凄腕の者である。外からこれを見れば、たいした幸福には見えないものを押し頂いて、幸福感を湧出せしめている。
相当の凄腕を有しない平凡人は、幸福とはおよそかけ離れた位置にいなくては、普通一般の幸福の姿はぼんやりとしか映らなくて、これを捕縛することが難しい。闇が深ければ深いほど差し込んでくる一条の光を明るいと感じることができるのだ。随って、一条の光を明るく見たい者は闇の深いところに居る方がいいのだ。感得しやすいのだ。
よろこびをよろこべるようになる。この段階にまで昇って来るには天空のはしご段を1000段ほども上ってこなければならない。よろこびでないものをよろこべるようになるにはさらにその数倍の階段を上がってこなければならない。これは菩薩の修行に似通っている。
頂いているよろこびをよろこべないでいる者は、悲しいかな、よろこびが見えてくる位置、低い低い位置にまで下りてくることが必要になる。そしてそこまで落ちてくれば、大概の者は、幸福とは逆方向に背を向けて己の不運を嘆くだけになる。
幸福は感得するものだ。こころに感じるものである。いわば虚数である。実体はないに等しい。大悲の天意は人間に幸福を感得させようとして、これでもかこれでもかと新しい方策を練って差し出して来る。幸福が見えやすい位置の地獄へと導いてくる。それでもそれが見えない者がそこで地獄を造って苦しんでいる。
さぶろうよ、おのれの地獄をおまへまだ地獄としてしか見えないで居るのか。
安納芋はおいしい。そんじょそこらのケーキはこのおいしさにははるかに届かないだろう。畑でサツマイモの苗を4種類ほど買ってきて栽培したが、この種は収穫量が少なかった。おまけに小動物らしきものの仕業だろうが、大きいのはほとんどどれも囓られていた。人様にはあげられそうもないピンポン球くらいの小さいのを、魚焼きのグリルで焼芋にしてみた。30分くらいで出来上がった。蜜が皮の外にしみ出ていた。色はわずかに人参色。甘い甘い。砂糖のような甘味料なんか使わなくとも自然界でこれだけ甘いのができるというのが不思議に思われるくらいだった。よし、こんなにおいしいのなら、来年は植え付けをうんと拡大してやろう。そんなふうな意気込みさえも抱かせた。