ほっかりほっかりしている。無有恐怖(むうくふ)はまだ恐怖がその底に有るのを否定した感じだが、有有(うう)安心、有有安堵、有有安楽の方は有有である。安心だけである。安堵だけである。安楽だけでる。それでほっかりほっかりしている。こちらで創出しようとすると無理が出てしまうことがある。こじ開ける力が出てそれで顔を歪めることがあるが、先方から届いた分を頂く分にはこの労苦がない。それでほっかりほっかりしていられるのだ。先方とは安養の浄刹土である。こちらでどうこうせずともすむのだ。楽しんでいればそれでいいように、初めの初めから工夫してあるのだ。これが大悲というものである。涅槃界というものである。
人怖じぬジョウビタキなり 首振りつ尾振りつ窓の奥をうかがふ 李野うと
ジョウビタキ、愛称「紋付き」は馬鹿鳥とも呼ばれている。人を見ても怖じない。人懐っこい。さぶろうが書斎に籠もっているとそのガラス窓のほんの近くの木ぎれに来て中を窺う仕草をする。書斎には外の明るさはない。鳥目がそれを窺う。尾を振っている。首を振っている。まるでさぶろうをかねてから見知っているかのごとくである。さぶろうは、ふいにこの鳥に、鳥にもなって会いに来ている父を思い母を思う。「僕は、ほらこんなに元気にしているよ」と手を振ってみせる。
わたしはまもられておりました
これを知らずにおりました
空がまもっておりました
風がまもっておりました
光がまもっておりました
とことことことこ森の小径を歩いて行きます
わたしはまもられておりました
これを知らずにおりました
霜がきつくて、畑に伸びてきていた空豆の、拳大ほどの葉がぐにゃりとなっている。凍ってしまったのだ。ここへ朝の光が届いて、ほんのりほんのりあたためている。