古代のインド人は「プラーナ」というものを考えた。わたしに出入するエネルギーのことである。目には見えない。しかし、実体はある。ハタラキがある。それがわたしに関わり合って、わたしを守ったり育てたり励ましたり養ったり支えたりもしている。
プラーナはわたしの国に入国する移民のようなものだ。わたしも、しかしまたそのようにして他国へ移民することができる。そこで楽しく交流をするのである。
「入我我入」という仏語がある。入我する主語は仏陀であり仏陀の法ダンマであり真理真如であり宇宙である。我入する目的語もまた仏陀界であり法界であり、真如界であり、宇宙界である。入我我入は、いつもやっている呼吸のことだ。吐いて吸っている呼吸はこうやって自国と他国を行き来をしているのだ。
自由に行き来ができるというところがなんともまあ利点である。長所である。わたしの殻に閉じこもることなしに生きたいところへ自由に行き来することができる、そこがいい。今夜は仏陀がわたしを訪れている、そう想像してみるとそれだけで勇気百倍である。
行き来する(体の)玄関のことをチャクラと呼んでいる。回転をしているので振動が生じる。それでそれが車輪のように見える。人間の肉体には7つの玄関があって、そこからそれぞれのプラーナが出入を繰り返している、という説がある。
このプラーナの出入り口をしっかり閉ざしている人も居るので、「閉ざさないで開けてみなさい。周囲にはありったけ楽しい世界が広がってきますよ」とアドバイスをすることもできる。これを「気を送る」などとも表現されている。相手をその気にさせるのである。楽しくさせるのである。愉快にさせ元気にさせるのである。
プラーナがあるので世界が広がっていくのである。広がっている世界が見えてくるのである。「おれの住む家は狭い」だとか「おれの実力はここまでだ」だとか、「死んだらおしまいだ」などと考えなくともすむのである。プラーナは宇宙の膨張ほおどにも拡大することができる強者なのである。
などなど、さぶろうは推論をして楽しんだ。どれもこれも嘘八百かもしれないのだが。