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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

渋柿が甘くなる理由

2014年12月01日 18時52分38秒 | Weblog

干し柿がもう食べられるようになりました。まだ堅くなっていないうちが却っておいしそうです。

渋が甘くなる。これは不思議なことです。数日、天日に干して冷たい風にあてておくと渋が飛んで行ってしまう。この推移は人工ではなく自然です。これで空の鳥も食べられます。

我が家のベランダに干した干し柿を、山から飛んできた冬鳥たちがもう突きに来ています。自然の成果を人間の独占物にしてはいけないので鳥の行動を見守っています。

鳥に食べてもらうので柿は種を遠くまで運んでもらえます。これが渋柿が甘くなる理由でした。人間に食べてもらうためばかりではなかったのです。

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「われに神力あり」と想像すると・・・

2014年12月01日 17時43分05秒 | Weblog

想像は楽しい。これで、おのれを閉じ込めている外壁を突破して行ける。閉じこもってばかりしていないでいいのである。おのれの限界を爆破していいのである。しかしこの想像の成果を人様に強制してはいけない。人様は人様流に自由な想像をして楽しめばいいのである。

「仏加持故 我証菩提 以仏神力 利益衆生」と舎利礼文にある。ここから想像を逞しくしてみる。加持とは加持祈祷の加持だ。守ってもらっていること(加)を内でしっかり受け止める(持)ことだ。仏がわたしの味方を買って出てくださるのなら千万力ではないか。その加護を得て修行者は菩提(仏智)を自証することになる。そこで仏同様の神通力が、不思議や不思議、むくむくと雲のように泉のようにわき起こってくる。そこで最終地点だ。衆生利益(しゅじょうりやく)をほしいままにする。起承転結する。

「神力」の「神」は「優れた」「この世のものとは思われないほど神秘的な」の謂だろう。おのれを神秘化することが力の源泉になる。わたしがスーパーマンになるのである。この想像は楽しいではないか。浮き浮きするではないか。想像するだけでわが足下から力が湧いて来るではないか。

人は神力を隠し持っている、それほどに偉大なのである。偉大を実行に移してみる。なるほどそうだった、間違いはなかったということになる、これが自証だ。そういう推移を考えてみるだけでもわくわくする。「おれにそんなことはできない」で終わらいためにはどうすべきか。発想に蓋をしないことだ。おのれを不自由にしている蓋からはみ出して、ともかくトライをしてみたらどうだろう。いや、それがそうなったところを想像してみるだけでも十分に楽しいはずである。

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生きているわが世界は狭くはない

2014年12月01日 17時07分10秒 | Weblog

古代のインド人は「プラーナ」というものを考えた。わたしに出入するエネルギーのことである。目には見えない。しかし、実体はある。ハタラキがある。それがわたしに関わり合って、わたしを守ったり育てたり励ましたり養ったり支えたりもしている。

プラーナはわたしの国に入国する移民のようなものだ。わたしも、しかしまたそのようにして他国へ移民することができる。そこで楽しく交流をするのである。

「入我我入」という仏語がある。入我する主語は仏陀であり仏陀の法ダンマであり真理真如であり宇宙である。我入する目的語もまた仏陀界であり法界であり、真如界であり、宇宙界である。入我我入は、いつもやっている呼吸のことだ。吐いて吸っている呼吸はこうやって自国と他国を行き来をしているのだ。

自由に行き来ができるというところがなんともまあ利点である。長所である。わたしの殻に閉じこもることなしに生きたいところへ自由に行き来することができる、そこがいい。今夜は仏陀がわたしを訪れている、そう想像してみるとそれだけで勇気百倍である。

行き来する(体の)玄関のことをチャクラと呼んでいる。回転をしているので振動が生じる。それでそれが車輪のように見える。人間の肉体には7つの玄関があって、そこからそれぞれのプラーナが出入を繰り返している、という説がある。

このプラーナの出入り口をしっかり閉ざしている人も居るので、「閉ざさないで開けてみなさい。周囲にはありったけ楽しい世界が広がってきますよ」とアドバイスをすることもできる。これを「気を送る」などとも表現されている。相手をその気にさせるのである。楽しくさせるのである。愉快にさせ元気にさせるのである。

プラーナがあるので世界が広がっていくのである。広がっている世界が見えてくるのである。「おれの住む家は狭い」だとか「おれの実力はここまでだ」だとか、「死んだらおしまいだ」などと考えなくともすむのである。プラーナは宇宙の膨張ほおどにも拡大することができる強者なのである。

などなど、さぶろうは推論をして楽しんだ。どれもこれも嘘八百かもしれないのだが。

 

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肉体だけがわたしではなかろう

2014年12月01日 16時40分54秒 | Weblog

体(ボデイ)は重層をなしているようである。玉葱のように何枚も何枚も重ね着をしているようである。わが目には肉のボデイ=肉体だけしか見えていないのだが、それだけでは寒すぎるはずだ。保護している別のボデイ=保護膜体のようなものがあるはずである。エーテル体、アストラル体、エネルギー体などという保護膜にも包まれている、とも説明されている本も読んだことがある。脊柱の骨を包んで筋肉、脂肪、神経、皮膜などがあるように。重層構造を為しているはずなので、膨らみがあるはずである。「わたしの面積」「わたしの容積」は、わたしが見ている以上に大きいはずだと、さぶろうは踏んでいる。わたしが生きていくには、わたしを生かしてくれるものが必要だ。その一つが肉体であって、それ以上もなくてはならないはずである。生きて行くエネルギーも口から食べて摂取しているだけではないはずだ。光のエネルギー、熱のエネルギー、虚空のエネルギー、思考のエネルギー、感情感覚のエネルギーなどさまざまに必要なはずだ。百重千重のエネルギーがわたしを取り囲んでいて、それがそれぞれに体をなして包み込んでいるのではないか。そうとも考えられる。実はジャイアント巨人のようにわたしは大きかったということが死んだ後で理解されるのかもしれない。法華経の経典のうちの妙音菩薩品には、娑婆世界へやってくる菩薩様方の体のスケールがとてつもなく大きいと記されている。シュメール山の何倍もの背丈だとも記されている。

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ようこそわたしの父でいてくださいました

2014年12月01日 16時25分55秒 | Weblog

夜中、父の夢を見る。お懐かしい。父が死んでからもう35年が経つ。それでもときおりこうして夢枕に立ってくれる。父がわたしに会いに来てくれたのか、わたしが父に会いに出掛けて行ったのか。夢の中のことだから、どっちだかはわからない。夢から覚めてなお父と語る。ぽつりぽつり独り言を洩らす。「お久しぶりでございました」「お懐かしいです」「お父さん、今夜はあなたに会えて嬉しいです」・・・。

そしてその途中ふっと「ようこそわたしの父でいてくださいました」「わたしはあなたの子どもであったことを今もよろこんでいます」とも語り出した。そう思ったのである。「わたしがここを去るときにはどうかお迎えを頼みますよ」でこの夜の語りかけを終了した。時間も距離も、わたしと父との間には長く隔てられていそうなのだが、そうでもないようにも思われるのだ。

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捨ててしまえないのである

2014年12月01日 16時11分45秒 | Weblog

ひぇーーっ、寒い! 木枯らしが吹いて来たぞ。ぶるぶるぶるう。それにもめげずに畑に出てブロッコリーの苗を移植した。小さなポットに種を蒔いてやっと15cmくらいになった。このままにはしておけないので、畑をできるだけ深く耕して施肥をして、最後の一本までも捨てずに植え付けた。どんなひ弱そうなのも捨ててしまえないのである。「わたしを捨てないで下さい」と苗が言っているようで。これだけ寒くなったのでこれから大きく成長できるかどうかあやしいけど。

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