<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

一人遊びぞわれは勝(まさ)れる

2014年12月08日 10時56分29秒 | Weblog

さてと、今日は何をして遊ぼうかな。ともに遊ぶ仲間は見付からないが、それはそれでよし。鹿の子百合の株分けの好機が到来している。これは地中を深く掘らねばならない。地中に眠る球根を傷つけてはならない。ミヤコワスレもその時季を得ている。だが、外は氷雨が降っている。おお、寒。おお、寒。なら、遊ばずともいい。小匙いっぱいほどの涅槃寂静を口中に嘗めるとするか。ごろんと寝そべって片時、瞑想をほしいままにするとするか。どんだの藪に赤い冬椿の蕾。

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交わって一如となり生成発展す

2014年12月08日 10時40分40秒 | Weblog

陰は陽に入り、陽は陰に入る。高気圧の気流は低気圧の気流に入り、低気圧の気流は高気圧の気流に入る。+界は-界に入り、-界は+界に入る。異性の陽極は異性の陰極に入り、陰極は陽極に入る。海は空に入り、空は海に入る。個は全体に入って合一し、全体は個に入って拡散する。梵(ブラフマン)我(アートマン)は互いに互へ入って、交わる。交わって一如となる。宇宙を構成する諸元素は互いに交流して活動の場を得る。活動して拡散収縮する。かして仏は自在無礙だ。生成発展はとどまることがない。生あるものはかくて常に干からびることがない。

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我を入らせたまふあり

2014年12月08日 10時09分36秒 | Weblog

入我我入 にゅうががにゅう

ここをこういうふうに読んでみる。

1,我に入って我も入る。

法身法界・仏界(人の知恵が把握できやすいための方便としては毘盧遮那仏)は我に入りたまひて我をやすらわせ、我は(この神力を授かる故に)(自在に)法身法界に入って(やすらふ)。この場合、「入我する」のは仏であるが、「我入する」のは我の行為である。自主性の尊重が見られる。

これは動詞「入る」の主語と目的語を補って理解を得ようとするときに都合がいい。

2,我に入りたまひ、我を入らせたまふ。

入って入る。仏も我に進入し、我も仏に進入する。この場合はこの行為の主語は両方とも仏である。仏のしわざである。だからこれは絶対他力である。

仏界と己は交流交易、融通して無礙である。かたときも離れてはいない。よってまことに相思相愛の関係にある。浄土系の思想では摂取不舎(救い取って捨てることがない)である。

これは妙好人の「救われてみれば救われることも無用だった。始めから終わりまで片時も離さず我は救われ通しだった」の述懐に繋がる。

我がうちに内なる宇宙広がれり。しこうしてまた我が外に外なる宇宙広がれり。この内なる宇宙の大きさは外なる宇宙の大きさに等しかり。我は、奇なるかな奇なるかな、この二つの宇宙に行って帰り、帰り来て行く。わが宇宙の旅の全行程は遙かなり。

我が手を取って我を入らせたまふ宇宙は、我を驚かさんが為なり、よろこばさんが為なり。我をよろこびにて満たさんが為なり。ひたすらひたすらここに遊戯(ゆげ)して向上の階を昇らしめんが為なり。しかるを我は、是(こ)をよろこばず。暗澹として空漠たり。その責めはただ我がいちにんのこころの狭量にあるのみ。

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己低くければ高みを仰ぐべし

2014年12月08日 09時56分08秒 | Weblog

己の座を低くするとそこでその必然として仰ぐ座標が高くなる。山を仰ぐには山麓に立てばいいのだ。空を仰ぐには地に立っていればいいのである。わざわざ己の座を低くすることはない。われわれは低い大地を住み処としているからである。これでわれわれは高みを仰いでそこに尊敬(そんぎょう)の心や向上の意欲を養うことになる。

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