<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

われは非器なりと思うことなかれ

2014年12月09日 16時00分09秒 | Weblog

さ、日が翳って来た。風が姫林檎の木々を揺らし始めた。さぶろうは森へ続く細い小径を歩いていた。森には高い椎の木が大きな顔をしてふんぞり返っていた。

「お前はそんなことをするために生まれて来たのか?」ふっとこんなクエスチョンが、小径を歩く耳に聞こえて来た。

さぶろうは、「そうではない」と答えた。 ときどき聞こえてくるので、決まってさぶろうは「そうではない」と答えている。

一度くらいは「そうだ」と胸を張って答えたいのだ。

「そうだ、おれはこれをするために生まれて来たのだ。そしてそれをしている今を楽しんでいるのだ」と胸を張って答えたいのである。

道元禅師はそこを現成公案の中で「仏道をならうとは自己をならうなり」と述べ、正法眼蔵随聞記の中で「かならず非器(ひき)なりと思うことなかれ 依行(えぎょう)せば必ず証をうべきなり」とも述べているが、これは己の黄金の輝きをみずからで認証することであるのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いのちはそのままで輝いているのだ

2014年12月09日 15時32分47秒 | Weblog

光は太陽の愛情である。命はそれを受けているのである。ありったけの宇宙の愛情を浴びているのである。それは将棋で説明するなら、歩を金に変える力になる。何度でも変えてしまうだけの力になる。

風は虚空星々の愛情である。水は地球の愛情である。火は大地草木の愛情である。これだけに限られてはいないで、降り注ぐ愛情は実に無限だ。これらの愛情を長期にわたってわれわれは独り占めしているのである。尊くないはずはない。

これを受けただけで終わるのではない。受けたものの絶対量に匹敵するだけは放射ができるのである。外へ外へ放射ができるのである。放射するこの輝きを見たものはこれを黄金と観るであろう。即身是仏と観るであろう。

静止しているだけで止まらなくて、それを放射しながらアトムのように宇宙中へ向けて飛翔していくこともできるのである。大きな、とてつもなく大きなエネルギーを潜在的に貯蔵していること、そしてそれをいついかなる時にも発射できるということ、これで周囲を輝かすことができると言うこと。これを告知される時が来る。

これを認知すれば、その知覚の力でもって即座に元気を得ること、こういった摩訶不思議をさぶろうはおばば様から聞いていたことを思い出したのだった。おばば様とは天空に浮かんでいる高い高い宮殿に招かれたときにそこで出逢ったおばば様のことである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光の投射量はからだに蓄積している

2014年12月09日 11時35分53秒 | Weblog

さぶろう、今日死んでもいいか。おお、いいとも。さぶろうはこのときどうした弾みでか、こんな軽口を叩いてしまった。

地球での暮らしから引き上げたら、次はどの星での暮らしになるか。住み慣れた場を離れていくのだからそこには惜別の情がある。次の星に到着するまでの不安もある。だが、ここの暮らしに数倍する楽しみも約束されているのだから、その期待もある。ともかく命の旅は続いて行く。これは間違いのないことだ。

ここの暮らしに数倍する楽しみが約束されている? そう言ったな、たしか。言ったさ。おまへそんなことがまだ理解できていないのか? 尋ねているのは、これもやはりさぶろうである。さぶろうの疑心である。

光を、受けたであろう? 十分な光を受けたであろう? この星に居る間に。どうだ?

こう言って反論しているのはさぶろうの仏心である。

光は貯蔵されている。200年、これは3世に渉っての期間だが、この間に貯蔵された光の量は埋蔵量にして100の20乗トンに昇っている。それは凝縮してさぶろうの仏心のマントルにマグマとして残っているが、もはや爆発寸前で、やがて間違いなく凄まじい勢いで爆発をするであろう。これは星々をも射通すほどの威力だ。そこら中がその輝きで光の海になるはずだ。これがさぶろうには意識されていないけれども、通力になっている。知らず知らずのうちに超常的なエネルギーになっている。

さぶろうの仏心は口達者だ。熱心だ。さぶろうの疑心を揺らしている。そして最後にとどめを刺してこう言った。

でなあ、仏界との約束が果たされたってわけなんだよ。さぶろうの向上のレベルは、この光のせいで、この200年ずっと上がり通しなんだよ。向上の桁数が更新更新を繰り返しているのだよ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天空の雲が致したこと

2014年12月09日 09時40分16秒 | Weblog

有り難う。

何が?

うん、雲致が出た。雲は丁寧に消化されていた。えっこらもっこらどっこいどっこい、食べたものを消化する作業に当たった消化器官の精鋭たちの、掛け声が夜中中響いていた。朝方、「ご主人様が必要とする栄養は全て吸収いたしました。活動できる態勢はすべて整ってございます」と報告があった。

さぶろうは、「有り難う」「お疲れ様でした。少しやすんでください」のお礼を述べて労をねぎらった。「これは天空の雲が致したことでございます」と彼らは、己の労苦には少しも恩を着せず、謙虚だった。そう説明されてみれば、なるほど、そうかもしれないと思えるほどに、工夫の跡を見せず自然そのものの成行のようであった。

さぶろうは今日の元気をもらって外に出た。朝の光がまばゆかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする