さ、日が翳って来た。風が姫林檎の木々を揺らし始めた。さぶろうは森へ続く細い小径を歩いていた。森には高い椎の木が大きな顔をしてふんぞり返っていた。
「お前はそんなことをするために生まれて来たのか?」ふっとこんなクエスチョンが、小径を歩く耳に聞こえて来た。
さぶろうは、「そうではない」と答えた。 ときどき聞こえてくるので、決まってさぶろうは「そうではない」と答えている。
一度くらいは「そうだ」と胸を張って答えたいのだ。
「そうだ、おれはこれをするために生まれて来たのだ。そしてそれをしている今を楽しんでいるのだ」と胸を張って答えたいのである。
道元禅師はそこを現成公案の中で「仏道をならうとは自己をならうなり」と述べ、正法眼蔵随聞記の中で「かならず非器(ひき)なりと思うことなかれ 依行(えぎょう)せば必ず証をうべきなり」とも述べているが、これは己の黄金の輝きをみずからで認証することであるのかもしれない。