あの日のこと

2013-05-09 | リハビリ
ジャーナリスト(笑)といわれている人たちにとって、3・11はもう飯の種ぐらいです。少し生々しいですが、お役立ち情報です。

あのぐらいの被害がでて、ほとんど何も売られていない状態になりますが、一ヶ月ぐらいで何とかなるようになります。あのときの生協、ヨークベニマル、いくつかのコンビ二は、あるものを売ってくれました。

イオンはだいぶたってから店を開けましたが、白いご飯とから揚げだけの弁当を390円で販売しました。店内を一周してくると、290円になっていました。誰も、人の足元をみたようなそんなものを、買いませんでした。店員でさえ、笑っていました。「やっちまったなぁ」ですね(笑)。

つながらない携帯ですが、フル充電しておくと心強いです(そのときになると実感できる)。私はガソリン式発電機を持っていましたので家族全員、息子夫婦のすべての携帯を充電しました。

ライフラインが止まった環境での、OHV単気筒エンジンの音は、ものすごくうるさいので、昼間の三時間だけ動かしました。夜間に使用したら、何が起こっても文句の言えない状態になると思ったからです。持っているからといって、使っていいものでもありません。イコールコンディションも大事です。

夜はLED作業灯と、カセットガスコンロを使用しました。ボンベも偶然買いダメがあり、友人にも分けてあげました。ガソリンコンロ(コールマン予熱なし)も持っていますが、女子供にはリスクが多すぎます。引火性も強いです。

50kgプロパンもありましたが、設備がないため室内に持ち込んでの使用はしませんでした。外でお湯を沸かし、女性の体ふきに使いました。

移動は、ほとんどジャイロを使いました。四輪の燃料も偶然満タンでしたが、どうなるかわかりませんでしたので温存しました。いっぱいあったバイクからガソリンを抜き、発電機とジャイロに使いました。余裕でしたね(笑)。

ストーブは、小型の反射式を使いました。燃費はいいわ、お湯が沸くはで、重宝しました。子供がいたので、完全監視状態ぐらいの注意は必要でしたけれど。

お風呂にはいれるようになったのは、一ヶ月すぎてぐらいだったと思います。

これは、被害がほとんどない家庭のお話です。

なくなられた方たちの、ご冥福をお祈りします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする