徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

玄宅寺 今年の舞納め

2014-12-15 21:47:26 | 音楽芸能
 舞踊団花童の玄宅寺定期公演も今日が舞い納め。年末もスケジュールがタイトな花童は、今夜は他会場と二班に分かれての出演。その分、一人一人をじっくり見ることができ、これもまたよし。
 来春の高校卒業とともに舞踊家として巣立つくるみさんは、あやのさんとのコンビもあと何回見れるだろうか。二人の舞姿を見ながら、彼女たちを初めて見た5年前から今日までのことを思い出しながら感慨にひたった。





赤穂浪士討ち入りの日

2014-12-14 18:05:32 | テレビ
 今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」もいよいよ大詰めだが、今日は衆議院選挙開票と重なるため、1週先延ばしとなった。
 ところで今日は元禄15年に赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日。大河ドラマではこれまで4回赤穂浪士を題材とした。

 赤穂浪士  昭和39年(1964)
 元禄太平記 昭和50年(1975)
 峠の群像  昭和57年(1982)
 元禄繚乱  平成11年(1999)

 平均すると、10年に1回くらいは赤穂浪士をやっていた計算になる。やはり、それだけ日本人に好まれた題材なのだろう。僕にとって一番印象深いのはやはり、最初の長谷川一夫が大石内蔵助を演じた「赤穂浪士」だ。東京オリンピックの年で、放送日は大学の寮のテレビの前は鈴なり状態。そして例の長谷川一夫のセリフ「おのおのがた…」を鼻にかけて言うのが流行った。
 最後の、中村勘三郎の大石内蔵助からもう15年。また2、3年以内には取り上げられるかもしれない。

 上の写真は、「元禄繚乱」において、大石内蔵助が敵方の目を欺くため、京都伏見の撞木町遊廓で遊興する場面に登場した本條秀美さん(右から二人目)


明治天皇&西郷隆盛 ゆかりの家

2014-12-13 21:30:20 | 歴史
 最近、「明治天皇御巡幸小島行在所」改修記念のイベントに、今何かと話題の竹田恒泰氏が来熊して講演したというニュースを見たので一度見てみたいと思い、所用で坪井川の川向こうを通った際、同行していた母と一緒に立ち寄ってみた。中には入れなかったが、その佇まいはさすがに風格を感じさせる。
 明治天皇に随行したのは、天皇の信頼厚かった西郷隆盛だが、このわずか5年後に逆賊として世を去るとは、天皇はもちろん、誰が考えただろうか。
 掲示板には次のように記されていた。

 軍艦「龍驤」に乗艦された明治天皇は、日進、春日などの六艦を従えられ、明治5年6月17日長崎を経て夕刻小島沖に御停泊。直ちに上陸されてここに一泊されました。肥後の地に天皇が行幸されたのは、歴史はじまって最初のことでした。
 お召艦「龍驤」は、肥後藩で英国に注文して建造され、明治3年朝廷に献上された日本最初の鋼鉄艦で、排水量2570トン、砲門9、乗組員270人でした。
 なお「龍驤」の船首の一部が熊本城天守閣の一階に保存されています。
 この由緒の地は新屋敷町の米村基一氏の所有でしたが、熊本市に寄贈され現在市で管理しています。
熊本市




「おてもやん」誕生のものがたり

2014-12-12 20:56:36 | 音楽芸能
 熊本民謡「おてもやん」は、今日では、三味線と踊りの師匠だった永田イネさんが明治時代後期に作詞・作曲したという説が定説となっている。しかし、永田イネ説が定説になったのは割と最近のことで、昭和57年(1982)4月に発行された「熊本県大百科事典」には熊本民謡「おてもやん」について、「唄が完成したのは幕末のころというのが一応の定説・・・」として永田イネやおてもやんのモデルについてはひと言も触れていない。これは永い間、永田イネさんのご家族や関係者が事情があって伏せてこられたことが影響しているようだ。しかし、徐々に断片的に明らかになってきた事がらを検証し、事実と事実を繋ぎ合わせ、「おてもやん」誕生の物語を紡ぎあげられたのが小山良先生(小山音楽事務所主宰)で、その著書「くまもと人物紀行 おてもやん」(2006年6月熊本出版文化会館発行)が、それまで諸説あった「おてもやん」の起源を、一気に永田イネ説に収斂させた。来週16日(火)は永田イネさんの命日である。


祇園で人気の舞妓はん!

2014-12-11 22:21:34 | 音楽芸能
 情報ワイド番組「ミヤネ屋」(ytv)で紹介され、一躍注目された京都祇園甲部の置屋「多麻」の舞妓 まめ藤さん(熊本出身の田端彩乃さん)16歳。その後、フォロー番組もあり、一気に人気に火が着いたようだ。市川海老蔵の成田屋さんと多麻の女将さんが懇意だということもあり、海老蔵さんのブログにも登場したりしている。
 最低でも1年はかかるという仕込さん(養成期間)を、異例の半年という短期間で見世出しが決まったという逸材。八坂女紅場学園での舞や太鼓、三味線、茶道、華道など舞妓になるための修業をそつなくこなし、まるで舞妓さんになるために生まれてきたようだという。彼女の大先輩まめ鶴さんが38年前、16歳で舞妓デビューした時の様子がNHK「新日本紀行」で放送されたことを憶えている。今では祇園の名取芸妓としてトップに君臨しているまめ鶴さんの姿を、昨年放送されたNHKプレミアム「新日本風土記」で見たが、まめ藤さんも同じ道を歩んでいくのだろうか。今後も注目しながら応援して行きたい。

3.11 民謡で被災地応援!

2014-12-10 16:14:50 | 音楽芸能
 今朝の熊日新聞に楽しみなコンサートの記事が載った。東日本大震災から満4年となる来年の3月11日、熊本市で被災地応援のための民謡コンサートが行われるという。福島竹峰さんを始めとする県内の民謡家のほか、岩手県の民謡家も参加する予定だそうだ。
 最近、東日本大震災の記憶が風化しつつあるという話をよく聞く。4年近くも経った今日でも一向に進まない被災地の復興や原発事故の後始末の問題はどこかに置き去りにされ、原発再稼働の話ばかりが先行しているように見える。まずやるべきことをきちんとやってから次のステップに進んでほしいものだ。
 東日本大震災の記憶の風化を防ぐためにも被災地を応援するイベントはとても有意義だと思う。来年の3月11日が楽しみだ。



▼南部俵積み唄(青森県民謡)

勢屯(せいだまり)のはなし

2014-12-09 20:35:20 | 歴史
 「勢屯」とは、かつてお城の中や城下町の出入口(構え口)や辻などに設けられた広場のことである。「武者溜(むしゃだまり)」ともいう。「たまり」とは人がたむろするところという意味だが、現在でもこの言葉が使われるのは大相撲くらいだろうか。いくさの時は人馬や武器をそろえて陣形を整えたり、参勤交代の時には供揃えをして行列を整えたりする場所として使われた。熊本城と城下町にもたくさんの勢屯が設けられ、江戸時代初期には40ヶ所以上の勢屯があったそうだ。現在ではその痕跡も残っていないものが多いが、中には今日では不自然な地形として残っているものもある。主なものをご紹介したい。

寛永6〜8(1629~31)年頃の勢屯の配置(○印)

城下町・熊本の街区要素一考察(久保由美子:熊本市都政策研究所研究員)より


▼京町番所の勢屯(1)

 最も北に位置する京町の勢屯。豊前街道の京町から出町へと通じる番所があったところで、肥後様や薩摩様の御行列が度々ここを通った。勢屯と番所と空堀の構造から、今日の県道303号線(旧国道3号線)もこの辺りで緩やかなS字カーブとなっている。

▼新一丁目御門の勢屯(2)
 新町から城内へ通じる唯一の御門の勢屯で、高札を立てる札の辻があり、豊前、豊後、薩摩、日向などの各街道の起点となっていた。勝海舟や坂本龍馬もこの御門から入って新町の御客屋に宿をとった。

▼新三丁目御門の勢屯(3)

 薩摩街道や日向往還の要衝となった御門の勢屯。城下から南への出入りは厳重に警戒されていて、番所と常夜燈が置かれ、暮れ六つには門が閉されていたという。

▼柳御門の勢屯(4)
 新町から船場へ通じる柳御門の勢屯。慶長15年(1610)には加藤清正がここで熊本初の阿国歌舞伎の勧進興行を行なったと伝えられる。(絵は森田曠平の「出雲阿国(一部)」)

2015年 熊本城 迎春行事

2014-12-08 17:27:50 | イベント
1月1日(木・祝)
■早朝無料開園
  【場 所】頬当御門
  【時 間】午前6時~
   ※他の門は8時半から開門
■かわらけ(素焼きのさかずき)配布
  【配布数】先着2015名
  【時 間】午前5時30分より頬当御門前で整理券(一人1枚)配布
  【場 所】宇土櫓前 ※午前6時~午前9時の間に整理券と引換
■新春祝獅子舞
  【時 間】午前6時20分~
  【場 所】天守閣前広場
  【出演者】新町獅子保存会
■天守閣登閣
  【時 間】午前6時30分~
  【場 所】天守閣前広場
   ※入場規制する場合あり
■新春太鼓
  【時 間】午前6時30分~、午前7時20分~
  【場 所】天守閣前広場
  【出演者】代継太鼓保存会
■おもてなし武将隊新春演舞
  【時 間】午前10時30分~、午後2時30分~(計2回)
  【場 所】天守閣前広場
■新春箏のしらべ
  【時 間】午前11時00分~、午後1時00分~
  【場 所】本丸御殿
  【出 演】箏演奏 藤川いずみ ゲスト 剱虚霧洞(尺八)

1月2日(金)
■新春の邦楽
  【時 間】午前11時00分~、午後1時00分~
  【場 所】本丸御殿
  【出 演】中村花誠と花と誠の会
       舞踊団花童「ザ・わらべ、こわらべ」
       吟道清吟流 向山侑真・侑珠他
  【料 金】熊本城入園料が必要
   ※入場制限する場合あり

1月3日(土)
■新春熊本城本丸御殿“能”~第15回初謡 in 熊本城~
  【時 間】午後1時~
  【場 所】本丸御殿
  【出 演】金春流
  【内 容】連吟「鶴亀」
       仕舞「弓八幡」「羽衣」「嵐山」「野守」
       附祝言
  【料 金】熊本城入園料が必要
   ※入場制限する場合あり


HIROさん撮影

ハーンと漱石 それぞれの来熊120年

2014-12-07 21:03:45 | イベント
 今日は三年坂のTSUTAYAまで歩いて出かけた。帰りにすぐ近くの「小泉八雲熊本旧居」を久しぶりに覗いてみようかと思い、門前まで行ったのだが、ガラケーの時刻を見るともう3時過ぎ。また今度にすることにした。坪井川沿いに歩いて来ると、今度は「夏目漱石内坪井旧居」の前にさしかかった。「ハーン先生の次は漱石先生か・・・」などと思いながら、だいぶ散った玄関前の紅葉を横目で眺めながら通り過ぎると、ふと先日参加した「漱石来熊120年記念年イベント」のことから、3年前のハーンの来熊120年記念イベントにもいくつか参加したことを思い出した。ただ、残念だったのは目玉行事の一つだった「創作舞台 青柳」を見逃したことである。


「創作舞台 青柳」

 「創作舞台 青柳」というのは、ハーンの「怪談」の中の「青柳の話」などを題材に能、日本舞踊、演劇を組み合わせた創作舞台のことである。それぞれの分野の一流の人たちが出演して見ごたえのある舞台だったと聞いている。
 そこで僕が今度の「漱石来熊120年記念年イベント」で期待しているのが、ハーンの時と同じような創作舞台だ。漱石の場合は「草枕」という絶好の題材がある。なにしろ本人が「草枕」の冒頭で「この旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう」と言っているくらいだ。野上記念法政大学能楽研究所が2002年に上演した「新作能 草枕」の再演も良し、オリジナルの新作でもいい。ハーンの時のように日本舞踊や演劇を組み合わせたものもまたよいと思う。いずれにせよ、来熊130年、140年、150年と、ことあるごとに再演されるような、後世に語り継がれる舞台が創作されることを願っている。
 なお、僕がまだ熊本に帰る前の「漱石来熊100年」の時は「草枕」を題材とした演劇が行われたと聞いているが詳細は知らない。


松岡映丘作「湯煙(草枕)」



西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり!

2014-12-06 19:00:34 | 歴史
「大本営陸軍部発表、帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり!」

 明後日12月8日は太平洋戦争開戦の日。73年前のこの日の朝、紺屋町の元九電熊本支店の屋上にあった熊本市防空監視哨の一番立ちの任務についた僕の父は、異常な興奮と緊張感の中で開戦第一日目を迎えた。当時、島崎の第七青年学校に勤務していた父は、陸軍歩兵伍長の資格で第七青年学校の班長としてこの任務に着いたのである。防空監視哨というのは、各都市において空襲に備えて置かれた監視哨で、任務は望楼に立って敵の機影を視認したり、爆音を耳にした場合は、市の防空監視哨長に報告するのだが、この報告が時には警戒警報あるいは空襲警報、避難命令となって市民に伝えられたのである。しかし、この日は敵機の来襲もなく、緊張とは裏腹に平穏な、気合抜けの一日が過ぎて行ったという。


昭和29年頃の紺屋今町周辺。白川に沿って走る道路が国道3号線。白川べりのビルが防空監視哨があった元九電熊本支店。手前は日銀熊本支店前を通って辛島町方面へ。


開戦2年前の8月、野砲第六聯隊の教練指導員講習会に参加した父(前列右から二人目)

唄比丘尼(うたびくに)

2014-12-05 20:53:59 | 音楽芸能
 俳優、ラジオパーソナリティ、俳人、エッセイスト、芸能研究者等々、多彩な才能を発揮した小沢昭一さんが亡くなってやがて2年になる。小沢さんは特に大道芸について造詣が深かったので、彼の話を読んだり聞いたりしているうち、大道芸の歴史について興味を持つようになった。
 最近、「大道芸」というブログの存在を知って読み始めたら、まぁ興味は尽きない。そんな中に比丘尼の話が出てくる。比丘尼というのは尼僧のことだが、ここでいう比丘尼は、尼の姿をして諸国を巡り歩いた芸人や遊女のことである。江戸後期に書かれた古文書「只今御笑草(ただいまおわらいぐさ)」や「盲文画話(ももんがわ)」の内容を引用して紹介しているが、その中に、「十六、七から二十歳ぐらいの比丘尼が薄化粧して、無紋に浅黄ねずみ色、紡ぎのような小袖を着て、幅の広い帯を前結びにしていた。頭には納豆烏帽子とかいう、黒木綿を折った帽子を被っていた。牛王箱なのだろう、たい箱という黒塗りの文庫みたいなものを小脇に抱え小唄を唄いながら物乞いをすることもあった。」。「この比丘尼にも小比丘尼を二、三人連れている。また小比丘尼は粗末な木綿布子に手甲脚絆をつけ、黒木綿で作った角頭巾を被ていた。五合ほども入る短い柄杓を持つ、六歳から十一、二歳までの小比丘尼を連れているのは、御寮比丘尼という。四十余歳だが色っぽい姿で牛王箱を抱えて付き添い、町々や門々へ立って歌う。」などと紹介されている。
 これを読んですぐに花童の「念仏踊り」を思い出した。中村花誠先生の描いた世界はこれだったのね。


ジョン・フォード生誕120年

2014-12-04 12:37:51 | 映画
 今朝の熊日新聞芸能欄に、熊大の辻昭二郎先生が「ジョン・フォード生誕120年」について寄稿されていた。先生の映画評論は随分前から読んだり聞いたりしていて、僕が最も信頼する映画評論家のお一人である。
 熊本でも6日からDenkikanで記念上映が行われるが、今回上映されるのは「駅馬車」と「静かなる男」の2本。誰が選んだか、実に絶妙なチョイスだ。フォード監督は自らもそう名乗っていたように「西部劇の監督」として名高い。そのフォード西部劇の中から1本選べと言われたらこの「駅馬車」を外すわけにはいかないだろう。「駅馬車」は西部劇のジャンルを超えて以後の映画に影響を与えた、映画史に残る金字塔だと思うからだ。一方でフォード監督はアカデミー監督賞を4度も獲った芸術性の高い監督でもあるが、実は西部劇では一度も獲っておらず、その西部劇ではないアカデミー賞受賞作の一本が「静かなる男」である。そして「静かなる男」はフォード監督の精神的な原点である故郷アイルランドを舞台とした作品の代表作でもある。
 僕が映画に目覚めたのは小学2年生、7歳の時(昭和28年)に観たフォード監督の「三人の名付親(1948)」である。だからフォード映画に出てくるアメリカ西部の風景は、僕にとって原風景のようなものだ。以降、僕は映画を見る時、常にフォード映画というフィルタを通して見るくせがついたような気がする。
 フォード映画について、アメリカ人よりも日本人の方が理解していたのではないかと思うことがある。アメリカ人にフォード西部劇のベストワンは?と聞いたら、おそらく「捜索者(1956)」と答えるだろう。実際、米映画オールタイムベスト100でも最上位にランクしている。しかし、日本人に同じ質問をしたら「荒野の決闘」か「駅馬車」と答える人が圧倒的に多いだろう。フォード監督自身ははたしてどちらの選択を喜ぶだろうか。多分、「あの作品の意図がわかってくれたか!」と喜びそうなのは日本人の選択のような気がするのである。
 フォード映画について書き始めたらキリがないほど次から次に出てくるが、今回はこれくらいにしておこう。


おジュンさま

2014-12-03 19:40:22 | 文芸
 夏目漱石が熊本を去って8年ほど経った明治41年2月9日の九州日日新聞(現在の熊本日日新聞)に、次のような漱石談の記事が掲載された。
 私は七、八年前松山の中學から熊本の五高に轉任する際に汽車で上熊本の停車場に着いて下りて見ると、先ず第一に驚いたのは停車場前の道幅の廣い事でした。然して彼の廣い坂を腕車で登り盡して京町を突抜けて坪井に下りやうという新坂にさしかゝると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下して又驚いた。そしていゝ所に來たと思つた。彼處から眺めると、家ばかりな市街の盡くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向ふの蒼暗き中に封じ込まれて居る。それに薄紫色の山が遠く見えて、其山々を阿蘇の煙が遠慮なく這ひ回つているという絶景、實に美観だと思つた。それから阿蘇街道の黒髪村の友人の宅に着いて、そこでしばらく厄介になつて熊本を見物した。

 この黒髪村の友人の家というのが、漱石を五高に招いた菅虎雄の家である。菅は久留米有馬藩のご典医の家に生まれ、漱石の三つ年上。東京帝大の時に知り合い、以来、ことあるごとに漱石を救っている。熊本へ赴任する途中、漱石は久留米に菅を訪ね、水天宮などを見て回ったという。久留米から熊本へは二人で同行することとなる。
 熊本に着いた漱石はしばらく薬園町の菅の家に逗留するのだが、菅にはおジュン(順)という熊本の尚絅高女を卒業したばかりの妹が同居していた。漱石の部屋の掃除などをさせられていたが、菅はこの最愛の妹と漱石を一緒にさせたいと思っていたらしい。しかし、既に漱石には中根鏡子との婚約が整っておりあきらめざるをえなかった。菅の家で漱石とおジュンは2ヵ月ほど同居するのだが、勝気なおジュンに漱石は手を焼いていたという。というわけで二人が恋愛関係に発展することはなかったようだが、後に鏡子夫人の入水事件の遠因になったともいわれている。

蛇の目坊主

2014-12-01 17:45:57 | 音楽芸能
 先週の土曜日、朝早く目が覚めたら、NHKで「日本の話芸」を放送していた。演目は一龍斎貞水の講談「蛇の目坊主」だった。加藤清正にまつわる講談で、題名だけは聞いたことがあるが中味は初めて聞いた。豊前毛谷村出身で加藤清正の家臣となった剣豪・貴田孫兵衛(毛谷村六助)の半生を描いた長編講談「毛谷村六助」の中の一節のようだ。前編後編に分けて掲載することにした。