徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

おジュンさま

2014-12-03 19:40:22 | 文芸
 夏目漱石が熊本を去って8年ほど経った明治41年2月9日の九州日日新聞(現在の熊本日日新聞)に、次のような漱石談の記事が掲載された。
 私は七、八年前松山の中學から熊本の五高に轉任する際に汽車で上熊本の停車場に着いて下りて見ると、先ず第一に驚いたのは停車場前の道幅の廣い事でした。然して彼の廣い坂を腕車で登り盡して京町を突抜けて坪井に下りやうという新坂にさしかゝると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下して又驚いた。そしていゝ所に來たと思つた。彼處から眺めると、家ばかりな市街の盡くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向ふの蒼暗き中に封じ込まれて居る。それに薄紫色の山が遠く見えて、其山々を阿蘇の煙が遠慮なく這ひ回つているという絶景、實に美観だと思つた。それから阿蘇街道の黒髪村の友人の宅に着いて、そこでしばらく厄介になつて熊本を見物した。

 この黒髪村の友人の家というのが、漱石を五高に招いた菅虎雄の家である。菅は久留米有馬藩のご典医の家に生まれ、漱石の三つ年上。東京帝大の時に知り合い、以来、ことあるごとに漱石を救っている。熊本へ赴任する途中、漱石は久留米に菅を訪ね、水天宮などを見て回ったという。久留米から熊本へは二人で同行することとなる。
 熊本に着いた漱石はしばらく薬園町の菅の家に逗留するのだが、菅にはおジュン(順)という熊本の尚絅高女を卒業したばかりの妹が同居していた。漱石の部屋の掃除などをさせられていたが、菅はこの最愛の妹と漱石を一緒にさせたいと思っていたらしい。しかし、既に漱石には中根鏡子との婚約が整っておりあきらめざるをえなかった。菅の家で漱石とおジュンは2ヵ月ほど同居するのだが、勝気なおジュンに漱石は手を焼いていたという。というわけで二人が恋愛関係に発展することはなかったようだが、後に鏡子夫人の入水事件の遠因になったともいわれている。