「大本営陸軍部発表、帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり!」
明後日12月8日は太平洋戦争開戦の日。73年前のこの日の朝、紺屋町の元九電熊本支店の屋上にあった熊本市防空監視哨の一番立ちの任務についた僕の父は、異常な興奮と緊張感の中で開戦第一日目を迎えた。当時、島崎の第七青年学校に勤務していた父は、陸軍歩兵伍長の資格で第七青年学校の班長としてこの任務に着いたのである。防空監視哨というのは、各都市において空襲に備えて置かれた監視哨で、任務は望楼に立って敵の機影を視認したり、爆音を耳にした場合は、市の防空監視哨長に報告するのだが、この報告が時には警戒警報あるいは空襲警報、避難命令となって市民に伝えられたのである。しかし、この日は敵機の来襲もなく、緊張とは裏腹に平穏な、気合抜けの一日が過ぎて行ったという。
昭和29年頃の紺屋今町周辺。白川に沿って走る道路が国道3号線。白川べりのビルが防空監視哨があった元九電熊本支店。手前は日銀熊本支店前を通って辛島町方面へ。
開戦2年前の8月、野砲第六聯隊の教練指導員講習会に参加した父(前列右から二人目)
明後日12月8日は太平洋戦争開戦の日。73年前のこの日の朝、紺屋町の元九電熊本支店の屋上にあった熊本市防空監視哨の一番立ちの任務についた僕の父は、異常な興奮と緊張感の中で開戦第一日目を迎えた。当時、島崎の第七青年学校に勤務していた父は、陸軍歩兵伍長の資格で第七青年学校の班長としてこの任務に着いたのである。防空監視哨というのは、各都市において空襲に備えて置かれた監視哨で、任務は望楼に立って敵の機影を視認したり、爆音を耳にした場合は、市の防空監視哨長に報告するのだが、この報告が時には警戒警報あるいは空襲警報、避難命令となって市民に伝えられたのである。しかし、この日は敵機の来襲もなく、緊張とは裏腹に平穏な、気合抜けの一日が過ぎて行ったという。
昭和29年頃の紺屋今町周辺。白川に沿って走る道路が国道3号線。白川べりのビルが防空監視哨があった元九電熊本支店。手前は日銀熊本支店前を通って辛島町方面へ。
開戦2年前の8月、野砲第六聯隊の教練指導員講習会に参加した父(前列右から二人目)