徒然なか話

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勢屯(せいだまり)のはなし

2014-12-09 20:35:20 | 歴史
 「勢屯」とは、かつてお城の中や城下町の出入口(構え口)や辻などに設けられた広場のことである。「武者溜(むしゃだまり)」ともいう。「たまり」とは人がたむろするところという意味だが、現在でもこの言葉が使われるのは大相撲くらいだろうか。いくさの時は人馬や武器をそろえて陣形を整えたり、参勤交代の時には供揃えをして行列を整えたりする場所として使われた。熊本城と城下町にもたくさんの勢屯が設けられ、江戸時代初期には40ヶ所以上の勢屯があったそうだ。現在ではその痕跡も残っていないものが多いが、中には今日では不自然な地形として残っているものもある。主なものをご紹介したい。

寛永6〜8(1629~31)年頃の勢屯の配置(○印)

城下町・熊本の街区要素一考察(久保由美子:熊本市都政策研究所研究員)より


▼京町番所の勢屯(1)

 最も北に位置する京町の勢屯。豊前街道の京町から出町へと通じる番所があったところで、肥後様や薩摩様の御行列が度々ここを通った。勢屯と番所と空堀の構造から、今日の県道303号線(旧国道3号線)もこの辺りで緩やかなS字カーブとなっている。

▼新一丁目御門の勢屯(2)
 新町から城内へ通じる唯一の御門の勢屯で、高札を立てる札の辻があり、豊前、豊後、薩摩、日向などの各街道の起点となっていた。勝海舟や坂本龍馬もこの御門から入って新町の御客屋に宿をとった。

▼新三丁目御門の勢屯(3)

 薩摩街道や日向往還の要衝となった御門の勢屯。城下から南への出入りは厳重に警戒されていて、番所と常夜燈が置かれ、暮れ六つには門が閉されていたという。

▼柳御門の勢屯(4)
 新町から船場へ通じる柳御門の勢屯。慶長15年(1610)には加藤清正がここで熊本初の阿国歌舞伎の勧進興行を行なったと伝えられる。(絵は森田曠平の「出雲阿国(一部)」)


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