徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

八幡の国というカブキ女、肥後に下る

2022-02-17 20:38:43 | 歴史
 「津々堂のたわごと日録」さんが今日、「熊本の中心が『新町』であった時代」という記事をアップされていた。
 現在、熊本市内では「春の植木市」が行われているが、城親賢(じょう ちかまさ)が隈本城主時代に始めたといわれ、その場所が熊本の中心である「新町」であったという。
 城親賢の時代から7年後、肥後に入国した加藤清正は新たに熊本城築城とともに城下町として新町・古町などの整備を行った。関ヶ原の戦の後、肥後一国領主となった清正は慶長11年(1606)に熊本城を完成した。慶長15年(1610)春、清正は八幡の國(出雲阿国)なる芸能者を招き、鹽屋町三丁目(現中央区新町2丁目)の武者溜りで歌舞伎を興行した。この場所は城下の流通の大動脈として清正が付け替えた坪井川水運の船着場である船場のすぐそばであり、船場川(坪井川)には木橋を架けたと推測される。つまり水陸両方からあらゆる階層の多くの人々が集積することができる立地だった。やはり清正時代も熊本の中心地は「新町」だったということができるだろう。 

▼天正19年(1591)頃、加藤清正の肥後半国領地時代の城下町


▼現在の古城・新町辺り

洗馬山のタヌキ像辺りに阿国歌舞伎の舞台があったかも。



出雲阿国


四条河原遊楽図屏風(一部)※鹽屋町三丁目の武者溜りでもこんな風景が見られただろう。