徒然なか話

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信長が舞った曲舞

2022-02-06 21:49:57 | 伝統芸能
 昨年1年間のYouTubeマイチャンネル動画再生回数が一番多かったのは「幸若舞 敦盛」(41,758回)という意外な結果になった。その要因はあらためて分析してみたいが、最近、織田信長が舞った「敦盛」についてのお問い合わせが散見される。以前、一度このブログで回答したことがあるが、再編集して掲載した。

 幸若舞とは室町時代前期、越前の桃井直詮(幼名幸若丸)によって始められたという曲舞(くせまい)の一種。いくつかの流派が生まれましたが、明治維新後、そのほとんどが途絶えました。唯一、筑後の大江村に伝わった「大頭流幸若舞」が辛うじて今日まで残っています。
 織田信長が舞った「敦盛」は越前幸若舞と思われますが、今日伝わる大頭流幸若舞と同じなのかどうかは不明です。信長が「敦盛」を舞ったことが文献に見えるのは信長の近習だった太田牛一が、信長没後20数年経ってから著した「信長公記」のみといえます。
 「信長公記」の首巻に二ヶ所記述が見えますが、それは概ね次のような内容です。

 尾張の天澤という天台宗の高僧が所用で関東へ下る途中、甲斐國で武田信玄に会った。信玄は、信長の人となりをたずねたが、その中で、信長の数寄(風流の嗜み)をたずねた。天澤は「舞と小歌を好まれる」と答えた。信玄が「幸若大夫を呼んでいるのか」とたずねると天澤は「清洲の町人友閑という者を呼んでおられる」さらに「信長公は敦盛の一番しか舞われない。人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、と謡いながら舞っておられる」と答える。

 もう一ヶ所は、永禄3年(1560)5月19日早朝、信長は鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの臣下の注進を聞くと、「敦盛」を舞い始めた。「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と謡い舞った後、「法螺を吹け」「具足をもて」と命令。具足をすばやく身に着け、立ちながら食事をすると、兜を被って出陣された。この時付き随ったのは小姓衆五騎であった。

 信長と幸若舞に関する記述は上記のものしかないと思われます。映画やドラマにおいて、信長が「敦盛」を舞うシーンは能舞のように振付けられることが多いので能舞と思われている方も多いようです。なお、能の演目にも「敦盛」がありますが、「人間五十年 下天の内をくらぶれば・・・」という詞章はありません。