「津々堂のたわごと日録」さんが今日、「熊本の中心が『新町』であった時代」という記事をアップされていた。
現在、熊本市内では「春の植木市」が行われているが、城親賢(じょう ちかまさ)が隈本城主時代に始めたといわれ、その場所が熊本の中心である「新町」であったという。
城親賢の時代から7年後、肥後に入国した加藤清正は新たに熊本城築城とともに城下町として新町・古町などの整備を行った。関ヶ原の戦の後、肥後一国領主となった清正は慶長11年(1606)に熊本城を完成した。慶長15年(1610)春、清正は八幡の國(出雲阿国)なる芸能者を招き、鹽屋町三丁目(現中央区新町2丁目)の武者溜りで歌舞伎を興行した。この場所は城下の流通の大動脈として清正が付け替えた坪井川水運の船着場である船場のすぐそばであり、船場川(坪井川)には木橋を架けたと推測される。つまり水陸両方からあらゆる階層の多くの人々が集積することができる立地だった。やはり清正時代も熊本の中心地は「新町」だったということができるだろう。
▼天正19年(1591)頃、加藤清正の肥後半国領地時代の城下町
▼現在の古城・新町辺り
洗馬山のタヌキ像辺りに阿国歌舞伎の舞台があったかも。
出雲阿国
四条河原遊楽図屏風(一部)※鹽屋町三丁目の武者溜りでもこんな風景が見られただろう。
現在、熊本市内では「春の植木市」が行われているが、城親賢(じょう ちかまさ)が隈本城主時代に始めたといわれ、その場所が熊本の中心である「新町」であったという。
城親賢の時代から7年後、肥後に入国した加藤清正は新たに熊本城築城とともに城下町として新町・古町などの整備を行った。関ヶ原の戦の後、肥後一国領主となった清正は慶長11年(1606)に熊本城を完成した。慶長15年(1610)春、清正は八幡の國(出雲阿国)なる芸能者を招き、鹽屋町三丁目(現中央区新町2丁目)の武者溜りで歌舞伎を興行した。この場所は城下の流通の大動脈として清正が付け替えた坪井川水運の船着場である船場のすぐそばであり、船場川(坪井川)には木橋を架けたと推測される。つまり水陸両方からあらゆる階層の多くの人々が集積することができる立地だった。やはり清正時代も熊本の中心地は「新町」だったということができるだろう。
▼天正19年(1591)頃、加藤清正の肥後半国領地時代の城下町
▼現在の古城・新町辺り
洗馬山のタヌキ像辺りに阿国歌舞伎の舞台があったかも。
出雲阿国
四条河原遊楽図屏風(一部)※鹽屋町三丁目の武者溜りでもこんな風景が見られただろう。
城親賢を調べると・・・はじめ大友氏、のち島津氏家臣
大友氏・・・最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有
隈本城・・・1588年(天正16年)加藤清正が肥後北半国19万5,000石の領主となり隈本城に入った。
いやー、大河ドラマよりとても興味が湧きます。
>清正は八幡の國(出雲阿国)なる芸能者を招き
国造りというのは、文化の導入まであるのですね。
ん?古代ローマはパンとサーカスでしたっけ?(笑)
>城下の流通の大動脈として清正が付け替えた坪井川水運の船着場
いやはや、清正公(せいしょうこう)さまさまですね。
>水陸両方からあらゆる階層の多くの人々が集積することができる立地
このような未来を描ける人物が歴史を作り上げていくんですね。
郷土史を紐解いていくということが、こんなに面白いことかと感じました。
どうも有難うございました。
中世に築城された千葉城と隈本城を取り込んで広大なスケールの熊本城を築いた加藤清正の構想にあらためて感心します。
清正の河川付け替えなどの治水・利水の功績がさかんに讃えられますが、能や歌舞伎などを広く市民レベルに下ろした文化面の功績も大きいと思います。
明治10年の西南戦争で、270年前の清正の先見性が証明され、陸軍軍人たちを中心に清正ブームになったことがよくわかります。