48年前の今日(1963.6.15)は坂本九の「上を向いて歩こう」が全米ヒットチャート、ビルボードの週刊ナンバーワンになった記念すべき日だそうだ。全米ナンバーワンになった日本のポップスは後にも先にもこれしかない。最近また、東日本大震災の復興ソングとして、またサントリーのCMにも使われて再び脚光を浴びている。J-POPの最高傑作と言っていいだろう。
「上を向いて歩こう」を聴いていたら、この曲にまつわるいろんな想い出が甦ってきた。作曲の中村八大さんはブリヂストン久留米工場の真ん前にある明善高校の出身で、僕が久留米にいる頃は地元の人たちに散々自慢話を聞かされたものだ。また、作詞の永六輔さんは、実は僕の長男が生まれて初めてのインタビューを受けた人なのである。昭和48年だったと思うが、RKK熊本放送が放送開始20周年の特別番組をやった。中継カーが市内を回っていたが、たまたまうちの近くを通りかかり、生まれたばかりの長男を抱いて散歩していた家内がつかまり、スペシャル・インタビュアーを務めていた永六輔さんにマイクを向けられたというわけだ。なんでも「グー」とひとこと言ったらしい。その12年後、僕は栃木県の黒磯に勤務していたが、労組主催の講演会に永六輔さんが招かれた。12年前の一件をお話ししたいと思ったが、とにかくスケジュールがタイトでお話しするチャンスはなかった。ずっと永六輔さんにアテンドした僕の上司、この上司が岩城さんといって僕が公私とも大変お世話になった方なのだが、実は指揮者の岩城宏之さんのお兄さんで、永さんにそのことを明かしたら永さんはあまりいい顔はしなかったそうだ。というのは、その何年か前、永さんと岩城宏之さんは政治行動を共にしていたが、意見が合わず袂を別っていたかららしい。そんな話とか、永さんはいかにも江戸っ子らしく、そば食いの早さたるやハンパじゃなかった話とか、いろんな話を懐かしく想い出す。
「上を向いて歩こう」を聴いていたら、この曲にまつわるいろんな想い出が甦ってきた。作曲の中村八大さんはブリヂストン久留米工場の真ん前にある明善高校の出身で、僕が久留米にいる頃は地元の人たちに散々自慢話を聞かされたものだ。また、作詞の永六輔さんは、実は僕の長男が生まれて初めてのインタビューを受けた人なのである。昭和48年だったと思うが、RKK熊本放送が放送開始20周年の特別番組をやった。中継カーが市内を回っていたが、たまたまうちの近くを通りかかり、生まれたばかりの長男を抱いて散歩していた家内がつかまり、スペシャル・インタビュアーを務めていた永六輔さんにマイクを向けられたというわけだ。なんでも「グー」とひとこと言ったらしい。その12年後、僕は栃木県の黒磯に勤務していたが、労組主催の講演会に永六輔さんが招かれた。12年前の一件をお話ししたいと思ったが、とにかくスケジュールがタイトでお話しするチャンスはなかった。ずっと永六輔さんにアテンドした僕の上司、この上司が岩城さんといって僕が公私とも大変お世話になった方なのだが、実は指揮者の岩城宏之さんのお兄さんで、永さんにそのことを明かしたら永さんはあまりいい顔はしなかったそうだ。というのは、その何年か前、永さんと岩城宏之さんは政治行動を共にしていたが、意見が合わず袂を別っていたかららしい。そんな話とか、永さんはいかにも江戸っ子らしく、そば食いの早さたるやハンパじゃなかった話とか、いろんな話を懐かしく想い出す。