のら猫の三文小説

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新しい子猫たち No.301

2014-11-13 00:00:23 | 新しい子猫たち 


洋太郎は、紡績と紡績グループでは御大と言われていて、不正義には怒り、正しい事は評価して、小手先の解決法には納得しない、いわば単純なジイサンと思われていた。

ある会社が再生と称して、社員を整理して、V字回復した時には怒っていた会社の本来の意味を間違っている、会社の目的は社員を雇用するためにあって、利益を出すためではない社員を雇用していけるために知恵出すのが経営者であって、社員整理して利益だすのは、本末転倒以外の何物でもないと言っていた

しかし若い頃の洋太郎は、東大の経済でも優秀とされていて、野心に燃える青年だった。顔も頭もそこそこよくて、資産家の息子と云う立場もあった。女の子を手玉に取って遊んでいた。それを洋之助に見つかり、お仕置きとして紡績にアルバイトをさせた。その時洋太郎は相場で損した事もあって、いやいや従った。

紡績は、洋之助の父であった、洋次郎が愛の会社と呼ばれるようにした。洋次郎は本当にいい人だった。敗戦時の混乱でもそれは変わらなかった、しかし社員たちは不安になった。これでこの会社はやっていけるのだろうかと

社員の不安を感じた洋次郎は、そして闇屋まがいの商売をして大儲けしていた洋之助を会社に入れた。洋之助は、洋次郎がした事を存続していけるように財政的な面で紡績に金を貯めるようにした。それが紡績の財務本部が出来た由来でもあった。洋之助は自分が相場活動を縮小していく時に、株式から債券運用に切り替えていくようにもした。

洋之助にとっては、父の洋次郎は誇りでもあった。洋次郎がしてきた事を続けていけるために財政的な基礎を作った。しかし本音では、洋之助は商売の人でもあったので、紡績の営業はまったく信用せずに、自分で販社を作り、そこに自分の子分も配して、紡績はこの時点からも代理店を通した営業に切り替わっていた。

洋次郎が死んで洋之助が社長になって紡績は財政的には完璧な会社に変わっていった。

しかし次第に洋之助は紡績にいる事はすくなくて、次第に商会と呼ばれた、一族の商社にいる事が多くなった。商会は上場していたし、二つの会社の社長は利害相反と呼ばれるために商会では単なる役員ではあったが社長をしかりつけ、指示だす役員に洋之助はなっていた。

紡績の業績は安定していて財政的にも問題はなくて、洋次郎時代の労務対策も維持されていたのに、洋之助は決して、社員から愛された社長とはいえなかった。

洋太郎には今は亡き洋次郎の面影があって、シブシブ働いていた洋太郎ではあったが、懸命には働いていたのを社員たちは評価して、洋次郎時代の社員たちが洋太郎を可愛がって育てた、

洋太郎も次第に変わって行った。そして洋之助は財界のバカ息子たちの再生を洋太郎にさせた。それはあのバカ息子たちは、洋太郎に昔のオマエの姿だと言いたかったのもあるが、商売のためでもあった。

洋太郎は人を教える過程で変わって行った。洋之助には商売の目的もあったが洋太郎にはなかった。そしてこの教育はやがて評判になって、多くのバカ息子たちを洋太郎は教育してきた。そして洋太郎も益々変わって行った。

洋太郎は自分の給料の一部を妻の俊子に渡すだけであった。俊子は洋太郎の身代わりとして財産の移転もされていた。俊子が冶部ホテルで働くようになったのは資産移転計画であったが、俊子は次第に単なるお飾りでもなく、資産移転のための報酬を受ける役員でもなくなり、冶部ホテルを日本の高級ホテルの代名詞のような存在に変えていった。

俊子にとっては、自分たちの資産でもある冶部ホテルを大切にして、目先の利益ではなくて、長期間持続できるホテルにする目的でもあった。

洋太郎は、入ってきた報酬でSMバーに行ったり、自分が飲みに行くのを業務打ち合せとして、経理伝票も切らなかった、部下たちを奢るのも自分の金でした。洋太郎は生活費を出した事すらない男だった。俊子は、部下たちを奢りなさいといつも言っていた。

部下たちもやがて、洋太郎が身銭きって、奢ってくれていると知った。それはやがては判る事だった。

洋太郎はやがて、社内から愛される社長になっていった。洋太郎が昔野心に燃えた青年だったとは知るのは、もはやも敷地内の超高齢者だけになっていた。

洋太郎は紡績と云う会社を愛し、社員たちを可愛がった、直ぐに正義とか愛とか云う、厄介なオッサンそしてやがてジイサンにはなったが、社員たちも、洋太郎を愛すべき社長とみるようになっていったのだった。

洋太郎は紡績の営業を製造本部の直販営業部として復活させた。自分を信頼して事務服を注文してくれたかつての教え子たちに恥かかせないためではあったが、事務服、作業服、ユニホームそしてスポーツウェアーと広がっていき、真面目で正直な、営業マンとは言えない、駆け引きも出来ない、かつての紡績の営業を復活させ、代理店営業に慣れきっていた営業本部にも営業そのものを見直すキッカケにもなっていた。

真面目な営業マン、原価示して商売するような、かつての紡績の営業が復活して、紡績がするだからと言って世間は信用するようになった。紡績は利益優先には走らない、原価に適切な利益を上乗せするだけしかしない。利益に対する評価ではなくて、営業姿勢に対する評価が紡績が勝ち取った評価だった。これは洋之助では出来なかった評価だった。低収益の営業ではあったが、世間の紡績を見る目はかつての洋次郎時代に戻っていた。

真面目で正直な紡績を取り戻して、紡績に対する信頼は強くなり、紡績社内でも洋太郎に対する信頼は固まった。そして洋太郎が会長となってもそれは続き、紡績の御大と言われるようになっていた。

洋太郎も計算する所は計算していた。運用本部とか研究所が収益を上げれるように独立性を高め、待遇も独自に厚遇して、大切にもしていた。管理本部での不動産からの収益と保有していた株式の配当とかも大切に管理してこれらの収益の一部を配当して、それ以外の金はちゃんと貯めていた。営業利益は社員に還元する姿勢は変わらなかったが、貯めるべき金はちゃんと貯めていた。紡績の豊富な現預金は少しつづ、洋太郎はふやしていった。

洋太郎は紡績のために怒り、紡績のために行動する、正義のために、愛のために発言するともみんなが思うようになったのも、理由があった。自分の利益で動くような人では洋太郎はなくなっていた。