のら猫の三文小説

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新しい子猫たち No.293

2014-11-05 00:00:29 | 新しい子猫たち 
紡績、化学そして冶部レーヨン
の設立の経緯は
それぞれ異なっていた。



元々は紡績が始まりではあるが、化学と冶部レーヨンとでは大きく違っていた。

紡績は、純子の祖父の初代阿部鉄平夫妻が、裁縫の内職援助の積もりで作った、会社だったが、純子は紡績事業もする大きな会社にしてしまった。

純子は紡績から始まって、一族の会社の営業を担当していた商会を、従来の物産問屋から一変してしまった。純子は紡績を振り出しにして、色々な会社の運営もしていたが、最後まで紡績の会長を勤めた。

紡績の経営は子供の洋次郎に紡績を託した。洋次郎は愛を基本とする真面目な性格だったのを純子は高く評価していた。

真面目はいいけれども、自由な気風と革新的な事にチャレンジしようとする姿勢がある人には、紡績には働きにくい会社になっていた。

純子としては自由闊達で、みんなが自分で動きやすい会社に、作り上げたつもりだった。才ある人には、活躍できる場を与えなさいと、洋次郎にはいっていた。

ただ、洋次郎は、本当に真面目で、愛は全ての基本と信じていた。純子子飼いの人たちにもそんなに真面目ではない人でも優秀な人はいる。そんな人たちは活躍できずに、小さくなっていた。純子は、こうした人たちも伸び伸びと働ける場所を作りたかった。みんな愛の人ではないと純子は思っていた。規格ハズレだけど優秀な人、無愛想だが優秀な人たちもいた。

紡績の子会社として設立したが、純子の個人資産そして純子の親しい財界の人たちから出資を募り、化学と云う新しい会社を作った。紡績の化学部門の一部を引き継ぎ、研究陣も紡績からきた。ここでは自由闊達にみんな働く事ができた、化学はやがて大きくなって、上場もした。

紡績は大株主ではあったが、晩年の純子は化学にいる事が多く、化学の人たちは紡績の子会社ではなくて、化学こそが、純子そのものの会社だと思っていた。

やがて純子は亡くなったが、化学は純子の精神を引き継いでいる会社だと云う自負が強くあった。純子の後は純子の長女が経営に関与し、洋次郎も母の純子や姉には何も言わなかったと云うよりも何も言えなかったので、紡績は化学に対しては干渉しないと云う、ルールみたいなものがあった。

研究陣は、元は同根なので、協力はするが、化学としても自由に研究していた。


冶部レーヨンは、違った。

洋太郎の父で洋次郎の息子に当たる、洋之助が設立した会社で、元々は紡績の一つの販社のつもりで作っていた。

洋之助は戦後の混乱期に大きく儲けた、戦後成金の一人だったが、愛の会社と言われた紡績の財務体制を確立する目的もあって参加していた。

財務、管理からスタートしたが、終戦直後には闇屋、進駐軍相手の商売もした洋之助にとっては、紡績の営業は、歯がゆかった、自分の子分たちの飯の種も要った。

そうして作った会社が、冶部レーヨンだった。研究や技術は紡績の研究所を使った。紡績の研究所が独立しているかのように自由に研究できたのは、洋之助が研究所を大切にしていたからだった、冶部レーヨンには化学も出資して、化学からも研究や技術の人はきてもらった。元々化学関係のスタッフは、紡績から化学に移動している事もあった。

洋之助は、冶部洋服という、自分だけの販社も作り、紡績の営業に頼らず、自分のやりやすいようにしていた。元々は妻のデザイン会社をベースにしたが、洋之助の子分たちも服屋でもいいと云う奴は採用した。

洋之助が作った販社の一つが、冶部レーヨンだった。冶部洋服は紡績としては出資せずにそれこそ、洋之助の個人会社だったが、有希が勝手に洋服店の集まりのような冶部洋服を大きくして、世界のブランドコレクターとして、お酒の名前のようなグループと世界を二分するファショングループにしたが、あくまでも洋之助の個人会社にすぎなかった。


洋之助が関係している会社は多く、大きな商社となった商会にも関与していたので、冶部レーヨンには自由に運営させた。自由に販売し、研究コストはない状態で冶部レーヨンはスタートし、やがて自分たちの研究所ももったが、基本特許などは、業務と関係する分野での紡績の研究所の特許を独占的に使用すると云う、暗黙のルールがあった。

その暗黙のルールを法的にも、契約として、冶部レーヨンに有利な契約にしてしまったのが二郎だった。二郎は冶部レーヨンが自由に伸び伸びと成長できるようにしていた。二郎は紡績の伝統に極めて頑固に従っていたが、自由に運営したいと云う思いがどこかにあり、それを冶部レーヨンで夢みていたのかもしれなかった。