のら猫の三文小説

のら猫が書いている、小説です。
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新しい子猫たち No.167

2014-06-30 00:00:38 | 新しい子猫たち 

マクロが好きになったのは、ある有名な老人の弁護士に飼われていたケイコと言う女の子、いやメス猫だった。




ケイコはやたらと法律に詳しかった。もっとも猫なので、そんなに活用する事もできなかった。その弁護士が家で勉強している時に、一緒に勉強する程度だった。それなりにケイコに取っては、知的好奇心も満足させられて、その弁護士も高齢とは云え、頭が切れて、色々な大きな会社の顧問弁護士もして、民事では有名な弁護士だった。






金も儲けて、ケイコも高級カリカリも貰い、刺身まで食い、その弁護士とクラシック音楽を一緒に聴く、落ち着いた日々を送っていた。






その弁護士もやはり、敷地外に住んでいて、ポックリ、死んでしまった。この弁護士はかなりの歳で子供が出来、子供たちを甘やかした。




子供たちは、ノータリンだった。派手派手姉ちゃんや喧しい音楽と言うよりは、騒音に近いナンタラロックが好きな息子だった。ケイコは呆れて、家を出て、マクロと出会い、香奈の家に来た。マクロジュニアとマクロタロウそしてマクロハナコを産んだ。






マクロは、コンピューターのシステム全体の安定性を担当していた。天才的なプログラムを作るラッセルタロウやビットたちのプログラムを理解できて、安定性を助言できる猫はマクロ以外にはいなかった。






マクロジュニアは、もっと凄く、システムそれ自体を考えた。いくら高速のプログラムでも安定性が悪いと、システムとしては良いとは言えないと考えていた。そうして、コネコソフトのシステムは、より安定なものになっていった。






マクロタロウは、技術や取引なんぞと言う、実利的な事は考えず、経済思想史などと言う訳の判らないものを研究した。経済学基礎研究所にも、そんな研究室もあった。理論経済ではなく、もっと経済学に流れる根幹の考え方を整理する学問だった。ただマクロタロウの哲学的とも言える洞察は、理論経済の猫たちや取引などの実利的な事をしている猫たちにも、それなりに影響を与える事にはなった。






マクロハナコはもっと実用と言うか、ケイコに近く、法律と経済の接点のような商法が好きだった。リトルチャは、へ理屈が好きだったので、リトルチャの法律チームの会合に、マクロハナコを同席させた。マクロハナコは、変な弁護士よりも、法律に詳しくなった。






リトルチャは、法律とか契約とかに詳しい猫だったが、それはやっぱりアマチュアのようなものだったが、マクロハナコは、猫軍団の顧問弁護士みたいな存在となり、人間の、いや本当の顧問弁護士たちと協力して、猫軍団に欠かせない一員となっていった。



新しい子猫たち No.166

2014-06-29 00:00:44 | 新しい子猫たち 

ビットハナコは、ビットの後にくっついているような女の子だった。ビットの天才的なプログラミングを見て育った。ビットは、アナログとまでは言わないものの、キーボードでプログラムを打ち込むタイプなので、どうしてもグラフィックのセンスには欠けていた。






プログラムも幾つかのショートカットキーみたいな抜け道も用意したが、いわば、緊急な場合に限定していた。ビットハナコは、それをもっと増やして欲しいとビットタロウに言った。






ビットハナコは、お絵かきのように、パソコンをいじった。ビットタロウのプログラムにやたらとショートカットキーみたいな部分が増えた。幾つかの場所をクリックするだけで、色々な処理が出来た。






大量のデータを一挙に処理するだけでなく、カスタマーナイズされたプログラムになった。ビットハナコは、猫の手ロボも使わず、マウスを使ったり、爪を軽く立てて、器用にパソコンをいじった。プログラムも書けるようになった。幾つかの決まりきった操作はサブルーチンにして、巧みにプログラムを作った。




それを見ていたビットは、今まで一連のプログラムだったものを決まりきった操作を、プーチンハナコと相談して、ネコネコCの命令文に加えた。




ネコネコCは、処理速度を落とす事なく、更に構文としても完成度をました。まだプログラマーフレンドリーの言語とはいえなかったが、ビット以外のプログラマーでも、それなりのプログラムが組めるようになった。




不動マンションや各地の猫ハウスにいた、ビット以外のプログラマーにとっては、難しいプログラムは、みんなビットに頼んでいたのが、自分たちでもそれなりにプログラムを組みやすくなった。






ここで、コネコソフトのプログラミングの能力が格段に上がった。それだけではなかった。ビットハナコは、タッチバネル式のキーボードだけでなく、タッチパネル式のブィスフレー上でのバソコンの処理を可能するプログラムを作った。






今までも、それなりにタッチパネルでの操作は出来ていた。拡大とか移動とか音楽再生とかの指示は、タッチバネルを触る事で可能だった。それを多くの処理をタッチパネルで出来るようにした。本格的な、ブィスプレーだけのバソコンが出来た。






香奈特別基金の液晶ディスプレー製造会社も協力したし、ロボット工学研究所も協力して、幾つも特許を取った。それはコネコ通信の画期的なハンディーバソコンのような携帯になった。ビットハナコは、ユーザーフレンドリーというよりは、自分のためにそれを作った。コネコ通信は画期的な成長をした。そのプログラムを作ったコネコソフトも成長した。



新しい子猫たち No.165

2014-06-28 00:00:18 | 新しい子猫たち 

奈津美の毛利九州観光の第二計画は、やたらと規模が拡大した。第三次、第四次計画まであったようなものだった。毛利九州観光が計画したものだけではなく、冶部ビル系列の九州第二開発の作った商業施設、加代子の金を使った加代子教の巨大な複合施設、リトルキャット九州の作った住宅ゾーンやそれに鉄道やバス、モノレール、エンジェルホープ九州第二病院まで含んだ巨大なあの都市の副都心になっていった。それに香奈特別基金や松本電産とリトルキャット九州の合弁企業の工場がある工業団地まで、近くに出来ていた。






奈津美の隠れ蓑のような観光事業は、毛利九州観光が全てに関係したものではなかったが、観光事業と云うよりは、大きな町が出来たようになってしまった。






誰も奈津美の隠れ蓑事業とは言わなくなった。単に観光設備ではなかった。この町の大きな公園でもあり、病院でもあり、運動設備でもあり、美術館のようなお寺でもあり、宿泊施設でもあった。そして近くには住宅ゾーン、商業施設、工場まで出来ていた。こうした大きな町を支えた企業として、あの都市では香奈オフィスの評判が高くなっていった。



新しい子猫たち No.164

2014-06-27 00:00:48 | 新しい子猫たち 

神之助は、密かに話をしていた日銀や財務省の偉いさんには、はっきり言っていた、こんな政策を取ると、いわば投機筋に喧嘩を売っているみたいだよ。世界中の投機筋と喧嘩する、そんな覚悟を持っているならいいけどね。






僕も儲けをある程度我慢して、協力していた事もあったけど、今後は自由にやらせてもらうよ。金は世界を回っているんだよ。日本以外にもマーケットはあるよと脅していた。






日銀や財務省の偉いさんは、まあ急には変更できませんが、神之助さんも運用を分散化させるでしょう。それは結構です。色々と便宜も図ります。今まで通り、色々とご配慮ください。その内になんとかしますと宥めていた。






投資と投機は、いわば紙一重の差でもあり、ナンダカンダとの対策も、国としても考え出していた時期でもあった。






カヨコジャパンの経営陣は、老練な弁護士とか税理士たちであり、十分に税金は減っていた。変に無理な寄付をして、問題になる事は拙いと判断した。調子に乗って、節税対策をするのは、下の下のやり方であり、それは素人のやる事で、本当のプロはさり気なく、自然な方法で節税する事だと知っていた、カヨコジャパンの運営者たちであった。






エンジェルホープジャパン病院は、九州もジブシティーも大儲けとは違うものの、なんとか黒字路線で安定化していた。カヨコジャパンのホテル事業は、むしろ少し赤字でもよかった。カヨコジャパンの経営陣に取っては、今は恵の財団に大人しく、計算しながら、寄付していく時期だと思っていた。開業して暫く赤字で少しづつ黒字になって、又新しくホテルを作る。それは、カヨコジャパンの節税を意味し、つまり自分たちの報酬が上がる事を意味した。経営陣には好都合だった。






カヨコジャパンは、加代子にとっては単なる財産管理会社だった。アメリカの会社の責任者が作った時に、財産保全と効率的に資金を保有できるために作った会社だったので、節税できたら、一定の高額の報酬に加えて、節税分の一定比率を成功報酬として、経営陣に渡す会社だった。実業で利益を出して行く会社でもないとアメリカの加代子の会社の責任者も思っていた。






アメリカの会社では、利益が上がれば、利益比例で報酬を幹部たちに分けていたが、そんな利益を求める会社ではなく、エンジェルホープ財団の事務もして、加代子の金の金庫番みたいな会社の積もりだった。






加代子には、カヨコジャパンのホテル事業は、頭の中では抜けていた。大きな赤字が出れば、流石の加代子も考えたし、カヨコジャパンの経営陣も考えたかもしれないが、赤字とも黒字とも言えない状態にして、節税対策みたいな出資を続けて行った。






加代子教は、宗教団体と言うよりは、、医療に関係する諸雑費を補助する社会福祉活動を行う団体とみんな思い、お賽銭も、ホテルの宿泊料とかレストランの食事代みたいな発想で、みんな出していた。






加代子教は利益と云うかお賽銭や寄付が増えてきたが、宗教法人に一度なってしまうと、宗教法人への寄付は出来ても、宗教法人から配当と云った形での利益配分も出来ず、色々との経費負担をさせる事が可能となる程度であった。






加代子教とは言いながら、運営の細々とした事務処理や金勘定などの財務は、カヨコジャパンですべて受け持っていた。加代子教の僧侶は美術の専門家でもあったし、各地の相談員はエンジェルホープ九州病院からの心理カウンセラーとか恵の財団から出向してもらった人だったので、銭勘定はカヨコジャパンが担当していた、これはエンジェルホープ病院でも同様だった。






カヨコジャパンは、そうした銭勘定をするための組織でもあった。しかし、カヨコジャパン自身が利益を出ていたので、経費負担は、カヨコジャパンがする事も多く、宗教法人の特典をカヨコジャパンが使う事はあまりなかった。






カヨコジャパンのズル賢い連中も、単に経理処理する程度で、そんなに関心もなくなっていった。カヨコジャパンのホテル事業は、利益率の高い冶部ホテル福岡別館、利益率がソコソコのあの都市のビジネスホテルみたいな複数のニコニコホテル、そして地方自治体の施設も入りエンジェルホープ病院の診療所みたいなものも入り、地域再生の拠点みたいな施設とも言われ、利益はソコソコ上げるが、それ以上に拡大し、投資が必要となるニコニコホテル愛染明王さんホテルチェーンであった。






カヨコジャパンホテルシステズは、常に投資しているので、大きく儲ける事は出来なかったが、地域では重要と言われた愛染明王さんホテルチェーンを抱えるホテル事業となっていった。全く別系列の加代子教の宿泊設備といいながらソコソコの利益のあるホテルは加代子教の収入源となった。愛染明王さんホテルチェーンは、九州各地のニコニコサービスの母船みたいなものになった。






カヨコジャパンホテルシステムズが、ニコニコホテルに預けていたこの金は、運営補助の金として処理していたが、利益のあるホテルに運営補助などを置いておくのは、隠し金みたいに思われるとカヨコジャパンの経営陣は思った。






そして、この金は公共性の高いサービス事業に投資すれば、税金控除も得られた。悦子と相談して、ニコニコサービスの拡張に使用され、カヨコジャパンホテルシステムズが大幅に出資した九州ニコニコサービスが出来ていた。運営はやっぱり、ニコニコサービスが担当した。






九州では九州ニコニコサービスが、ハウスクリーニング、オフィスクリーニング、財団と組んだ介護サービスを展開して、圧倒的にこれらのサービスを支配していくようになるのは、更にもう少し先の話であった。






ただカヨコジャパンは、大きな病院となったエンジェルホープジャパン病院とこうしたホテル事業そしてニコニコサービスにも出資していた企業になり、異色の企業群と言われていった。






カヨコジャパンの経営陣は、実務にはほとんど関与していなかった、なんなる銭勘定だけをし、税務処理をする連中だった。しかし、こうした評判はきっちり利用していた。






カヨコジャパンは、公的なサービスも展開している企業と言われていた。実は海外の運用子会社での運用による配当と云った収入が遥かに多かったにも拘らず、運用関係の利益についてはみんな追求すらできない雰囲気になった。あの経営陣の節税の方法は極めて老練だったので、税金は、いつも安かった。


新しい子猫たち No.163

2014-06-26 00:00:40 | 新しい子猫たち 

話は少しさかのぼるが、あの都市以外に初めに、ニコニコホテルに愛染明王さんを御祭りするホテルが建って以来、次々とホテルは建っていった。カヨコジャパンも、節税対策みたいな出資は、惜しまなかった。何故か、ホテルの開業計画を立てると、愛染明王さんの仏像とか掛け軸が、見つかり、そうしたホテルに御祭りされたのも不思議な事だった。






九州一体に、カヨコジャパンとカヨコホテルシステムズそしてニコニコホテルの福岡を中心にして、ニコニコホテルの各支店が、少しだけ出資したホテルが次々と出来ていった。ニコニコホテルが運営してたが、従来のニコニコホテルと区別するために、こうしたホテルは、ニコニコホテル愛染明王さんホテルチェーンと呼ばれるようになった。






カヨコジャパンのホテル事業の子会社化が進んでいき、少しつづ利益も入ってきた。一方カヨコジャパンとしては、最も利益が大きかったのは、神之助と神子に預けていた運用委託だった。カヨコジャパンは加代子教への寄付も減りだして、ホテルの運営もそれぞれ落ちついてきたので、二人への運用委託を調整しようと思っていると、神之助と神子の方が先に動いていた。






もっとも大きな利益が出ていた神之助の運用も、神之助が配当と運用との間で、税率が極端に違う事に腹を立て、リヒテンシュタインとケイマンなどの税率の安い国に新しく、それぞれオーバーシーズ運用会社を作り、運用を分散化した。






神之助に運用委託していた各オーバーシーズなども、リヒテンシュタインやケイマンなどの税率が安い国に子会社を作り、そこが運用を委託する方法に変更していた。






神子の運用は、ファンド規制も厳しくなったので、ジブ以外の金は一度返し、リヒテンシュタインやケイマンなどに各運用子会社を作り、その運用子会社が実際に運用すると云う方法に変更されていた。






今や世界中で運用できるデリバティブが増えていた。日経先物は、アメリカやシンガポールで一種の株価指数みたいなものとして、行われていたのが、ヨーロッパにも波及して、ほぼ24時間、売買されていた。




アメリカやヨーロッパなどの大きな国の株価指数も先物指数となって、世界中で売買されていた。




カヨコジャパンやリトルキャット運用会社はそうした海外運用子会社を早速作っていった。神子たちは、まず自分たちの神子グループの運用を、海外の運用子会社が運用して、配当を貰う形に変更していた。






勿論、投資アドバイス料とか言って、運用手数料みたいな金は取った。






冶部一族に取っては、無料診察制度の維持は一種の呪文みたいなものだったが、香奈は、無料診察制度を維持し、そのために必要な金は政府への寄付というか税金の前払いみたいなもので保証すると約束していた。






つまりどんな節税対策を取っても、無料診察制度は維持されると考えた。もう遠慮も要らなかった。神子と神之助は異例ではあったが、協力して節税に努めた。それぞれのグループから初めて、ジワリジワリとジブ本体の運用にもその動きを強めていた。






これは何もジブだけの動きではなかった。普通のヘッジファンドには、無料診察制度の維持は呪文ではなかった。配当課税率を下げ、ヘッジファンドみたいなものに対する課税強化は、こうした動きを強める事になった。






今まではどんな利益も同じ課税率が設定されていた。陽太にとっては、どんな所得も所得だった。経営による通常所得だろうと配当所得だろうと金は金だった。一部の所得に、安い税率を適用しようとする発想はなかった。金には印なんぞにないと考えていた。






みんな一律に課税されているとそれほど文句も出ないが、課税率に差があると、人間は、少しでも課税率の低い方に動く習性がある動物であった。






等しからざるを不満に思うのは、かなり根の深い心理であった。控除も、社会福祉法人への寄付などの少数の特例だったが、新規投資控除とかベンチャー企業投資控除とか色々と増え、それを商売にする人もいた。




これは日本の成長や投資を促す政策であり、投資も増えて成果も出ていたが、そうした節税技術の成長をもっと促す政策であり、節税技術は格段に進歩していった。