リトルキャットは、辺郎のアジア快適
や神帥の食品会社まで巻き込んで、
巨大なブランドへ!
このワンポイントアクセントは、辺郎のアジア快適の製品のメインマークにもなり、ナターシャブランドの洋服とバッグそしてグッズは人気になっていき、快適ルートでアメリカにも販売し、アメリカでは、やたらと人気がでた。
辺郎は、一々商標料やデザイン料を払うのではなく、リトルキャットエイジアンコーポレーションをアジアの快適と株式会社リトルキャットとの間で対等出資した合弁会社を作って、この会社に、利益に応じたランセンス料を支払う事で、海外での商標権やデザイン権の管理をリトルキャットから譲り受けた。
アメリカでは、衣料用品にとどまらず、神帥の食品会社がリトルキャットとの合弁企業の、リトルキャットフーズを作り、同じようにライセンス料を支払う事で、海外での食品分野での商標権やデザイン使用権を獲得した。神帥の食品会社は、品質はいいものの、デザインや訴求力に弱かった、神帥の食品会社のメインブランドになった。
商才のあった羽郎は、神帥とのコネも活かし、リトルキャットフーズとブラジル食品研究所との協力関係も強めた。単なる商標やデザインを付けた食品ではなかった。新しい技術、そうして多様な原料を使った一大食品ブランドになった。
そうして、リトルキャットが、衣料から食品まで広がる大きなブランドになっていこうとは、この時は誰も予想しなかった。
ナターシャもモデルだけではなかった。デザイナーでもあった。猫のくせに器用にデザインを作った。こうして、リトルキャット運用会社は基本的には、現物株の保有もし、運用もしていたが、子会社というか合弁会社のリトルキャットは、不動総合企画が不動マンションの住民の再生を図りながら、運営して、辺郎のアジア快適、神帥の食品会社などと協力していき、大きな会社へと成長していくのであった。
リトルキャット運用会社は、出資した資本に対する配当を、株式会社リトルキャットは、合弁企業からの配当、商標権とブランド使用料そして国内販売を安いよと分け合ったが、この海外ライセンス料として、信じられないような大金が入ってくるようになっていった。
ジブシティーのリトルキャット直営店は、やがて大きなビルに本店を構え、金持ち連中が綺麗なモデルを連れて買いあさるようなブランドショップになるとは誰も思わなかった。
安いよでも同様の製品も売っていたが、その他の格安品も、当然安いよにも置いていた。安いよスーパーの包装紙より、デザインに凝ったリトルキャット本店の包装紙や紙バッグの方が人気が出た。
聖子は、危機感を覚え、製品を一般品と高級品とに分け、一般品は安いよと快適ルートの独占とし、反対に高級品は、グランドリトルキャット製品として、リトルキャットの独占とする案を出し、それが成功して、住み分けが出来て、リトルキャットも安いよも大いに儲かった。
アメリカとヨーロッパでは、リトルキャットの直営店といいながら、快適の現地法人がこっそり運営委託までした。幸夫は、ファション関係の総合服飾を目指していた。
羽郎はそれを知って、同様の運営委託を請負、南アメリカで、同様の直営店を作る事をリトルキャットに提案して、南アメリカの快適の資本までこっそり入れた。
アジアとインドを預かる辺郎は、高級ブランド品の直営店を運営するのは、躊躇していたが、自分たちが作っていた商品が多いので、ジブ現地法人なども誘い、自分たちも出資して、直営店を作り、運営委託を請け負う事になった。
リトルキャットは、リトルキャット運用会社も出資していたが、結局、不動と快適と言うまったく違う企業風土を持つ企業が運営している会社になり、一部ではジブ現地法人まで資本参加もした。やがて、独自のブランド品になっていった。