のら猫の三文小説

のら猫が書いている、小説です。
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新しい子猫たち No.1445

2018-03-31 00:58:47 | 新しい子猫たち 

神三郎は人格円満な子供ではなく、負けず嫌い、独立独歩の面も持っていた。頭の切れる兄弟、頭の切れる父親、母親の環境の元に育ち、負けるものかと育っていた。長男の神一はガキの頃から天才と言われていた。神二郎は独特の性格で、特に 兄の神一を意識しているようには見えないが、神三郎は意識していた。


 


それが周囲との軋轢を生みやすいのは否めない。ただ 人は助け合うもの、ナニか優れているのは、それで人を助けなさいと神様に言われているのだと僕は思うと言っていた、神二郎からの影響も受けてはいた。


 


頭のいい家系ではあるが 神三郎も努力して東大医学部に入り、そこでも努力して、手先も器用で外科に入った、消化器外科を専攻したが、あまりにも手術が上手すぎて、元々権力の権化みたいな治部一族だけに、権力に媚びる事をせずに 教授の不興をかった。


 


治部病院に移籍するしかなかった。


 


ここで総婦長に可愛がれた、腕は良くても性格はいいとは言えない人たちの中で生活できたのは、この総婦長のアドバイスがあったからだった。神三郎ちゃんには本当の医師の匂いがすると言ってくれた。名門で、資産家の息子なのに、真剣に医者を務めていると褒めてくれた。看護婦たちは名門一族のボンボンだけに 眺めているだけだったが、恐れを知らない 加代子からの熱心なアプローチを受けた、どこかオカシイ感じのある加代子につい同情し、人助けの積りもあって結婚した


新しい子猫たち No.1444

2018-03-30 00:54:56 | 新しい子猫たち 

日本のエンゼルホープ病院を建設していた時に治部病院で総婦長をしていたバアサンが、看護婦募集に応じて来てくれた。この人は孤立していた治部病院でも、神三郎を庇って、色々とアドバイスしてくれた人だった。このバアサンも引退して 子供がいたジブシティーにきて、元気になったが、する事もなかったのだった。歳の事はジブシティーでは意味なかった。みんな来ると頭は冴え、体調はみるみるうちに良くなった。神三郎は喜んで、この人を総婦長にした。医学研究所は本来、看護婦たちへの医学的アドバイスをするために作られたのだった。


 


エンゼルホープ病院は特異な病院で看護婦たちの立場は強かった。病院の実質的運営は、この総婦長が医学研究所の大物のジイサン、バアサンたちと相談して進め、神三郎は肝心な所では判断はするが、普通は完全に医師として働く 不思議な病院だった。消化器外科、緊急外来を自分が直接 総括していた。


 


緊急外来は神三郎の待遇に困った治部病院の首脳が 神三郎からの提案に渡りに船で作り、神三郎に任せたのだった。治部病院の理事には治部一族の長老たちが揃い、緊急外来を作る費用はそっくりと出した。香奈も神三郎を可愛がっていた。神三郎が新しくエンゼルホープ病院を作る時に、そっくりと この緊急外来はエンゼルホープ病院に移り、治部病院の緊急外来はなくなった。神三郎は金の事は全く苦労しない人として生まれ、医師となっても、結婚する前は神太郎がバックに控え、結婚して暫くたつと加代子の相場での天才ぶりが発揮され、あっという間に資産家となった。神三郎は神太郎に お前は金の苦労はしていない、それは お前が金の苦労 関係なしに、医療を進めるために 神様が準備してくれたのだ。それを忘れてはならない と釘を刺されていた。


 


治部病院は、治部一族の病院でもあって、何しろ神三郎の父親は ジブトラストの跡目とも言われていた、神太郎だった。治部病院も取り扱いが難しかった。心臓外科とか循環器に特化していこうとしていた治部病院がヤニワに緊急外来を作ったのも、神三郎の扱いに困ったからで、神三郎の独立に反対するのではなくて、無理やり関連病院として形だけを取り繕う事も出来た


 


総婦長は神三郎を子供や孫のように可愛がっていた。神三郎も頼りにしていた。神三郎は実感していた。私は色々な点で恵まれている。確かに 病院運営も金も人事でも全て 周りが処理してくれていた。


新しい子猫たち No.1443

2018-03-29 00:52:06 | 新しい子猫たち 

神三郎が人格円満で協調性が高かったのではなかった。神三郎は大学でも孤立し、一族の病院だった 当時は本格的な総合病院だった、治部病院でも孤立していた。孤立と言っても、理由が明確でない事に、従う積りは毛頭なかっただけの事だったが、学識も高く、初代治部次平の血統を持ち、しかも財力のある奥さんがいるので、他人は手出しができず、扱いが厄介そのものだった。


 


手術のテクニックはスバ抜けていても、上手くいったとは到底言えなかった。それがアメリカでのエンゼルホープ病院、日本でのエンゼルホープ病院を作る、そもそもの発端でもあった。その当時としても加代子の財力は治部一族の中で、香奈、神之助に続くとまで言われていて、加代子が神三郎のために病院を作ったようなものだった。


 


ただ神三郎はジブシティーの引退した医師、医学者たちを集めて、医学研究所を作った。引退したり隠居したジイサン、バアサンに 隠居所を提供した積りだったが、ジブシティーは敷地内に似て、頭は冴え、体もみるみるうちに元気になっていった。


 


神三郎は そういった人たちと接する内に変わっていった。人間が出来たと言っても良かった。単に人間性だけの問題ではなく。こうした人たちの弟子もエンゼルホープ病院で働くようになり、エンゼルホープ病院は充実してきた。


 


遺伝子治療も理論的に こうした言葉を作ったともいえる医学者が引退してジブシティーの子供の家にきて、する事もないので、医学研究所にきて、猫のクリスとも会う内に、再び研究する事で、実戦的な遺伝子治療が出来るようになった。今では世界的にも遺伝子治療のトップを走っているのが、日本のエンゼルホープ病院だった


 


神三郎は この遺伝子治療のノウハウを提供する事で、初代治部治平のようなネットワークを作り出した。孤立したライオンのような かつての神三郎ではなく。多くの優れた医学者たちと接する内に神三郎も変わっていた


 


 


 


 


 


新しい子猫たち No.1442

2018-03-28 00:48:18 | 新しい子猫たち 

治部一族は初代治部次平の流れを汲む一族で基本的には医者が多い一族だった。治部次平は今で云えば循環器、トリワケ心臓に関心が強かった。ただ時代は江戸時代 心臓外科と云う言葉もなかった


 


各地を転々としたが、最後は江戸に屋敷があった。治部病院を作ったが 基本的には総合病院だったが、次第に心臓外科、循環器が中心になった。


 


産科小児科は 治部産科小児科病院に 内科の医者はマチコジブ記念病院、心臓外科、循環器系等以外の外科はエンゼルホープ病院に大まかに分かれていた。ただエンゼルホープ病院は 総合病院になって、外科以外はそれぞれの病院からの派遣を受けていた。初めははっきりとしたゼニの問題だった。ゼニのあった加代子は旦那の神三郎のために総合病院を任せたかった。ただ遺伝子研究がこの病院で進み、遺伝子治療まで進みだして、実質的に 治部一族のコアな病院に進みだした


 


それ以外にも 各地では初代治部次平の教え子たちの医院、病院はあったが 次平の死後 ネットワークは分断していた。次平には娘がいて、その娘も医者となり、次平の弟子と結婚して、大阪で病院を作っていて、学究肌でもあって、次平の後援者でもあった阿部一族の支援を受けて、大阪で私立医科大学を作っていた。


 


阿部一族は様々な事業をしたが、純子が治部家に嫁ぎ、阿部一族と治部一族との境は曖昧になっていた。


 


阿部一族は結果としては本業は製薬になって、純子の流れは今の治部一族のコアな企業に分散し、香奈のジブトラストは運用から出発したが、資金が豊富な事もあって、治部一族のまとめ役みたいな存在になった。


 


元々の医業は、治部一族の神三郎によって 再編されていく段階となった


 


 


 


 


新しい子猫たち No.1441

2018-03-27 19:44:06 | 新しい子猫たち 

エンゼルホープ病院の九州病院の院長は、名前こそエンゼルホープ病院だったが、マチコジブ記念病院からきている人、代々 マチコジブ記念病院の副院長の人が院長になる事が多かった。マチコジブ記念病院は恵が作った病院で、治部ビルがそれ程大きくなかった時代でもあり、寄付集めに苦労し、みんな腰が低く、学会、医師会とも付き合いも上手くいっていた。企業の健康診断もよくしていた。恵は医師たちの待遇とか体制作りには気を付けたが、病院の中身については手を抜かなかった。それだけに財政的にはより苦しかったのだった。エンゼルホープ病院とは違うが、寄付金集めにはみんな苦労して今日があった。


 


九州病院はその流れを汲んでいて、九州の大学とか開業医たちとネットワークも作っていた。東京本院は元々何もなかった所だったし、神三郎の独立独歩の姿勢で出来た病院であったのと違っていた。


 


この時も、近在の医師たちとも協力関係が出来て、むしろ 分院の分院みたいな関係を近在の医師たちの病院とか診療所を作り上げた。


 


診療器具も九州病院から貸して、健康診断をしてもらう関係になった


 


エンゼルホープ病院は東京本院のみならず九州病院も 寄付でやっていける体制が出来ていた。カヨコファイナンシャルは、この病院を支えるための法人だったのに、恒常的な出費はほとんどなく、加代子からナンダカンダと言われ、診療器具などの新規購入分の費用を寄付として分担していたので、この時に必要な負担も すんなりといった。


 


九州の医師たちのネットワーク作りも進んで、その核となったのだった。