ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

機関紙BEATNIKその8

2016-01-26 09:31:20 | 日記
1977年4月25日の上野市産業会館は
佐藤剛さんが甲斐バンドのマネージャーになられて
「初めてついたコンサート」そうですが

26日の福井、27日の金沢にも同行され
エレベーターのないホールの5階まで
スタッフの方が器材を階段で運ばれるのをご覧になって
「ヘビーな仕事だなあと思いましたね」とおっしゃってます(汗)

佐藤さんが、音楽業界誌「ミュージック・ラボ」の編集記者を辞め
フリーになられる際に、レコード会社やプロダクション
何人かのアーティストからオファーがあった中で
「一番条件が悪かった」甲斐バンドを選ばれたのは

「そういうことで測ることの出来ないバンドなんじゃないかという
気持ちが強かった」からで
「契約マネージャー」との肩書きは
「僕の希望でもあったんです
甲斐バンドと一緒にやりたいとは思ったけど
シンコー・ミュージックに入りたい訳じゃなかった」と話されてますが

「バンド側が勝手に人を増やしてしまった(笑)」ので
「契約料の半額をシンコーが払い、残りはバンドが経費として出す」という
「異例の」契約形態には
「慣習破りのレッテルがついていた」んだとか…(笑)

78年1月8日新宿ルイードの取材メモによると…
年明け1回目。この翌日、甲斐よしひろは
「ライブ・サーカス&サーカス」のカッティングに立ち会い
その翌日、ソロLPのためナッシュビルに出発

ディレクターはおらず、現地で作ってから
レコード会社を探すやり方だったと書かれてるんだけど
この時も「ソロアルバムを別のレコード会社から出すことなど有り得ない」とか
「甲斐バンド解散か?」などと騒がれたみたいだし

「誰もやったことがないこと」は「ライブ」だけでなく
業界の「ならわし」でも色々あったんでしょうね?(笑)

ともあれ、前回ご紹介したような
当時の甲斐バンドのコンサートをご覧になって
佐藤さんは「違う、どこか違う」と言い続けておられ

「女子供のバンドっていう蔑視を取り払いたかった
女の子のファンが多いことと
女子供向けのバンドということは違うんだと判らせたかった」そうですが

ナッシュビルに同行され、マネージャーとしての関わり方が明確になり
「甲斐の歌、音楽、バンドの像に僕を重ね合わせていって
より多くの人に正当な評価をして貰いたい
バンドの性格がキチンと反映された曲がヒットさえすれば
状況はガラリと変わると思ってました」と…

甲斐さんが「翼あるもの」を作られた経験をバンドに還元され
ロック色の強い「誘惑」が誕生して
その後のライブの質が変わって行ったみたいだし
この機関紙にも(HEROの前と後というより)
「誘惑以前と以後って分け方も出来そうだ」と書かれてます

ちなみに、この年9月頃のスタッフノートには
連日、客席の男女比が書き込まれていたそうで
「16日水戸・男25女75、22日山梨・男25女75
28日銚子・男40女60、29日大宮・満員・男5%女95%!(笑)」
…別に銚子の人口割合では男性が多くて
大宮は少ないってことではないですよね?(笑)

それはさておき…78年は、4月と5月に2回の九州ツアーがあったようで
4月23日福岡市民会館は「交通ストとハチ合わせ
次の日の予定が決まらないままスト突入

24日の長崎から熊本へは列車を使わず、フェリー、レンタカーで移動
26日の熊本から鹿児島への移動は
人吉の大森信和の(ご実家の)旅館に寄り
一服してからという忙中閑ありの予定変更」と書かれてるし

その鹿児島終了後、中2日で名古屋
そのまま5月に入り
「26日間で19本という強行ステージ(汗)6連チャンという日程もあった
毎日2時間以上のステージ(汗)」って
奧さんに聞いてた以上にハードだったんだ…と改めて実感

当時の「追っかけ」の方々には
経済力以上に体力が必要だったでしょうね(汗)

さらに「24日の大分ライブの日、佐藤剛の父親が死亡
ロックバンドのスタッフは、親の死に目にも会えない」と…(汗)

甲斐さんが神戸でライブ中に
「親父が危篤だという連絡があった」とおっしゃった時も
「今夜も目一杯やるから」との言葉通り
最後まで熱いステージを見せて下さったそうだけど
ホントにキツイお仕事ですねぇ…

年末の福岡電気ホールでのライブは
「事故でPAが8時間遅れの夕方5時に到着したため
リハーサルなしのぶっつけ本番でスタートした」らしく(汗)

そのせいかどうか?翌日のクリスマス・イブに
ライブ・スケジュール一覧にはない「八幡市民会館」の文字が…?!
急遽「やるぞ!」ってことになったという可能性もなきにしもあらず?(笑)

他にもこの年には、日比谷野音があったり
それを中島みゆきさんが初めて見に来られたり
10月5日大垣市民会館のライブ後に
旅館で「HERO」を作られたりと
様々な出来事があったみたいですが
あとひとつ印象的だったのは…

78年3月9日高松市民会館に
「現在の照明チーフの前島さんが初めて甲斐バンドを見に来た
前島さんはこの時、キャンディーズの照明を担当
後楽園のさよならコンサートに向けてフィーバー中だった(笑)」

…と記されてるんだけど、3月16日郵便貯金ホールでは
「キャンディーズから解放されたばかりの前島チームがこの時から担当」
…って、早くね⁉(笑)

武石さんから「甲斐バンドを見て欲しい」と頼まれ、高松に行かれた際には
「イモなバンドだと思ったんです、悪いけど(笑)
で、逆に、俺ならこうするっていうのが沢山あった
それがやりがいになりそうだって感じだったんです」と前島さん

「余程のことがないと楽譜を見ない」
「自分の身体とカンで(プランを)作っていく」方らしいので
高松のステージをご覧になりながら
1曲1曲考えていらしたのかも知れませんが

「ポップコーン…」のストロボのカットアウトのタイミングを掴むために
甲斐さんが何度もギターを弾かれ「ハイここ」と繰り返されても

「俺は音楽はシロートだからさ
ともかく演奏終わったら消すよって(笑)
大将もガックリ来てたみたいだったけどね(笑)」とおっしゃってるし
見切り発車のぶっつけ本番に近かったんじゃないかと…(笑)

高松と東京の両方をご覧になった方がいらしたら
どんな照明で、どこがどう変わっていたのか
それに気づかれたかどうか、お訊きしてみたいです(笑)

ちなみに…「PAは2月13日のルイードから日比野チームが担当しており
現在のステージスタッフの形はこの時に出来上がった」らしい

そうそう!5月3日の渋公で
「ステージに初めてミラーボールが衝撃的に登場した」と書かれてるんですが
その直前4月末あたりのセトリを見ると
アンコールの「この夜にさよなら」で使われたのかなあと…?
「100万$ナイト」が初めてじゃなかったんですね






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機関紙BEATNIKその7

2016-01-25 06:17:55 | 日記
1975年12月20日の神田共立講堂は
甲斐バンドの東京での初ワンマン・コンサートで
取材メモには…当時のマネージャーの武石さんですら
ハッキリと思い出せないくらいに「夢中」だったと書かれてるし

Vol.15に掲載されているインタビューで
大森さんも「忘れられないコンサート」に挙げられていて
(演出の「雪」がすごくて(苦笑)
「弾き難いけど、完璧アドリブでメチャメチャ弾けたもんね
神田共立はもう一度やってみたいね」とおっしゃってます

「最初のワンマンで、忘れ得ぬ君をやったステージ」とのことだけど
残念ながら、その日のセトリは掲載されていません(苦笑)
ただ、翌年同日の神田共立(浜田省吾さんとのジョイント)でも
「忘れ得ぬ君」を演奏なさってるようです
(品プリのファンクラブ限定トークショー(笑)の時にも…?)

この日は「神田共立が使えなくなるというラスト・コンサート」だったらしく
前日に泉谷しげるさんが「イスを10席壊していた」んだとか…(笑)

「屈辱のデビュー・コンサート」に始まった神田共立には
印象的な出来事が色々あったんだなあと…
イチローさんがリンドンの解散を決心なさったのも
この時の甲斐バンドのリハーサルをご覧になったからだったみたいだし

文化放送の渡辺ディレクターが
岩崎宏美さんの「ロマンス」を歌われた甲斐さんに興味を持たれ
その日の内に「セイヤング」レギュラー出演のオファーを出されたようだし…(笑)

ともあれ、その1976年は福岡・小倉の成人式のゲスト出演(笑)で幕を開け
毎日ホールで大阪初のワンマン
福岡も「さと帰りコンサート」を辞退してワンマンで凱旋
9月11日の中野サンプラザでは、ワンマン初の立ち見が…♪

ライブハウスではもう手狭になり
「3日徹夜しないとチケットが取れないバンド」と
囁かれ出したのもこの頃からみたいです

「有線放送大賞」以降、テレビ番組から身を引かれ
「どんなところでもやる」とライブ活動に集中なさった結果が
徐々に形になって来られたんでしょうね

そうそう!甲斐さんのもう一つの神戸ネタ(笑)
せっまぁ~いサテライト・スタジオに無理やり楽器を持ち込まれ
メンバー4人ぎゅうぎゅう詰め(笑)でもモニターだけは入らず
仕方なくイヤホンで「か細い音を聴きながら歌った」こともありましたね(笑)

でも、それもかなわない場所では
「レコードを流しながら、頭を下げていた」そうです

76年の学園祭といえば、青山学院(笑)
(D・T・ブギウギ・バンド、丸山圭子さんとのジョイント)
甲斐バンドが登場して1曲目にPAが飛んで(汗)
「それでも40分間の完全燃焼
この日初めてギターを床に叩きつけて壊した
床の方も傷ついて張り替えに?百万かかったという」例の事件が…(笑)

甲斐さんによると…その前から老朽化していたトコへ
トドメの一撃(笑)だっただけで
俺にそんな力はない(笑)…らしい(笑)

翌月の東京家政大学の学園祭では
(バンバン、リンドンとジョイント)
「興奮したファンが殺到して7人がケガ、新聞に大きく載った
親衛隊という言葉が使われていた」と…(笑)

77年2月、学園祭ではなく初の「予餞会」で訪れた某高校で…
全員制服、会場両側には礼服姿の先生たちが並ぶという雰囲気(苦笑)

後半は生徒がイスを蹴飛ばして、前方に走り出し(笑)
翌日の職員会議で、担当の体育のO先生が吊し上げられた
…と記されてるんだけど(汗)O先生の好みで(笑)企画なさったんだとしたら
「ヨッシャーッ♪」ってカンジですよね(笑)

5月8日の渋公は3月のサンプラの追加公演で
浜田省吾さん、ハルヲフォン、ARBが前座として登場され
「甲斐バンドが出るまでに2時間はやってた」らしく(笑)

「アンコールの吟遊詩人の唄の時に
殺到した客の1人がイスに挟まれて混乱(汗)
甲斐よしひろが歌うのを中断したところ
客席から大合唱が起きるという感動的なハプニング」の後

「渋谷ハチ公前交番から
駅前でコンサート帰りの女の子が倒れてると電話があった」り
「救急車が出動した」というほど盛り上がったようです

8月20日、同じ渋公でのコンサートは
「甲斐バンドが登場する前に弦のカルテットが
風が唄った日を演奏するという構成
でも、メンバーが出る直前にモニターが発煙(汗)
使用不可能になり、モニターなしで開演
ステージ上は最悪だった
でも、そんなトラブルは気づかないくらいのパフォーマンスだった」と…(笑)

12月には、いつぞやご紹介した泉谷さんとのジョイントで
初めてのチャリティー・コンサートに出演

「1週間前に泉谷さんが先にやることに変更
男中心の泉谷さんのステージに対して
甲斐バンドの女性パワーが盛り上げ勝ち(笑)
主催者が途中で、ノリすぎてるんで何とかして下さいと泣きを入れて来た
当然却下(笑)」

…といったエピソードでも十分理解できるんですけど
初ワンマン神田共立の時の「スタイリストはピーコだった」とか
立ち見サンプラの時には「メイクはKISSよりも早くやっていた(笑)」とか

翌年、キースさんとイチローさんが参加されたサンプラでは
「紫のファッショナブルなコスチューム」で
渋公は「ギンギラ・ゴールドの衣装」
野音は「赤いバギー・スーツ」と

甲斐さんのお召し物の変遷(笑)にも触れられてるのは
やはり、読者から提供された資料が元になっているんでしょうし
当時の女性ファンの多さを物語ってるなあと…(笑)

この年の12月は「カウンター・コンサート」とのことで
「ステージにカウンターを作り(笑)
歌い終えると女性コーラスが水割りを作る(笑)というステージ構成
ローディもスタッフも全員タキシード」だったらしい

「サーカス&サーカス」に収録されてた
「歌のお姉さんに拍手を…」の後の「おね~さん!(笑)」って掛け声に
思わず納得してしまいました(笑)











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機関紙BEATNIKその6

2016-01-24 06:26:26 | 日記
BEATNIK Vol.14と15に掲載された
1974~1982年の「甲斐バンド ライブ・スケジュール」
その下段に添えられた「取材メモ」によると

「出発コンサート」の欄には…
その当時、チューリップなどの照明をやっていたAさんが
シンコーのスタッフに紹介された時に
甲斐よしひろが
「絶対に他のアーティストと違うアカリをやって下さい」と言ったと驚いていた

…と書かれていて、デビュー前からすでに
甲斐さんご自身のライブ体験に基づかれた
「照明」へのこだわりがおありだったんだなあと…(笑)
まあ、ハッピーフォークの時に「こんなPAじゃ演奏できない」って
ダメ出しなさった方ですもんね(笑)

その後の秋のツアーは
「チューリップ、がむがむ、甲斐バンドという顔ぶれが多かった
ともかく沢山のステージ、学園祭から公録からやったので
スケジュールが抜け落ちている可能性があります」と…

確かに、9月12日の長野市民会館(公録)から新宿厚年、ルイード
渋公や日比谷野音、横浜文化体育館、札幌や福岡のホールライブもあれば
一橋学園祭、(昼)富士短大学園祭(夜)鶴見女子大学園祭もあるし(笑)

「若いこだま(湊さんの特番?)」や例の東海ラジオ、福岡KBC
TBS「モーニング・ジャンボ」CX「夜をあなたに…」への出演
福岡松屋6Fや町田大丸屋上での公録…等々が記されていて
新人バンドの忙しさが窺えますねぇ(汗)

12月28日までお仕事で、翌75年も1月3日の「ヤング・インパルス」を始め
「ギンザNOW」などのテレビ出演や
デパート屋上での公録やキャンペーンがめじろ押し

ちなみに…奧さんが参加したラジオ関西の公録はこの年の1月で
甲斐さんが未だに根に持っておられる(笑)「神戸の流れるプール」は7月…
ただ「それ以来、学園祭はやらなくなった」という甲斐さんの言葉に反して
その後もスケジュールに記されてます(笑)

ともあれ、8月10日の札幌から13日の秋田まで
「ハイエース1台にメンバーと運転手、スタッフとマネージャーの計7人が
楽器と共に乗り込み大移動」なさったらしいんですが

その翌日14日、山形鶴岡球場での「一万人の夕涼み」という市の催しは
(スクール・メイツの皆さんとご一緒)
「お客は千人か二千人…気が遠くなるくらいに寒いコンサート」
…って、まあ涼しくてよろしかったんじゃないでしょうか(苦笑)

9月には初の沖縄、フェンスの向こうは米軍基地という
極東放送前の野原でイベントがあったみたいだけど
ちょうど、基地のカドミウム公害が問題になっていた時だけに
大雨の中「スタッフは足元を気にして恐る恐るだった」んだとか…(汗)

それでも2~3千人の観客が立ったまま並び
泥沼化した地面に座らずに待っていたらしい

甲斐さんの前に出演したバンドが、発煙筒や爆竹を使って
派手なステージをやったそうですが
その後「生ギターの甲斐がそれ以上にアツイステージをやった」…って

この時は、今と同じようにドラムセットを運ばずに
アコギライブだったんでしょうか?
その次に甲斐バンドで沖縄へいらした時には
「150人しか集まらなかった」とおっしゃってましたよね?(汗)

それはさておき…10月6日の五所川原市民会館
(ジャズの峰厚介さんとご一緒)の際には
青森の木賃宿のような安旅館に泊まられ(汗)
翌朝、洗面所でサラリーマン風の男性に
「甲斐バンドじゃない?」と声をかけられたという

その方は東芝のセールスマンで「自分が売っているアーティストが
自分と同じ安旅館に泊まっていることに感激し
バンドは、自分たちのレコードがこうやって売られているんだと感激した」
…と記されてます

この頃は「新人」ということは勿論でしょうけど
他のグループとのジョイント・コンサートや
歌謡曲の歌手の方々とのイベントが多かった時代で

メンバーの皆さんも「お客さえいれば、どこでも誰とでも一緒にやる」と
意志確認の上とは言うものの
大変な思いもなさったでしょう(汗)

同じ10月、1年ぶりの福岡電気ホールでのワンマン・コンサートには
「フライング・サーカス」というタイトルが使われたそうで
これが後の「サーカス&サーカス」ツアーになるんですね

その2ヶ月後のKBC主催の「さと帰りコンサート」は
毎回、福岡出身者ばかりで開かれていたようですが
甲斐バンドは、この年を最後に出演しなくなったらしい

その後もバンバンや他のグループとのジョイントは続いているので
やはり「福岡」というククリがネックだったのかなあと…?

そうそう!この年に有線放送大賞の新人賞を受賞され
その大賞の発表日は渋公でコンサートがあったため
演奏をビデオ収録する予定だったみたいだけど

ディレクターの方がQを出された途端に
大森さんのレスポールが壊れて音が出なくなり(汗)
急遽、その場にいらした井上堯之さんのギターを拝借したんだとか…(汗)

音楽番組には慣れておられなくても
スタッフの方が咄嗟に機転をきかされるトコは
さすがライブを支えて来られただけはあると思ったら
当の井上さんには無断で…だったらしいです(笑)
































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機関紙BEATNIKその5

2016-01-23 10:55:35 | 日記
前回ご紹介した「出発コンサート」は
甲斐バンドとしての第一歩だったんですが
データに残されている本当の「初ステージ」は
約1ヶ月前の1974年7月30日倉敷市民会館らしく
その翌日の大阪から23日の宮崎まで、5本のステージをこなされています

これは、出来立てホヤホヤのバンドに
コンサートの雰囲気を味わわせておこうという事務所側の配慮で
チューリップのツアーに同行したものだったんだとか…

ただ、この配慮が「チューリップの弟バンド」というイメージに繋がり
後の神田共立講堂に結びついてしまうんですよねぇ…(汗)
出発コンサートのゲストにチューリップが登場された時も
甲斐さんの声が聞こえないくらいの大歓声だったし…(苦笑)

ともあれ、博多時代にも門田一郎さんが
スタジオで猛練習を繰り返す甲斐バンドを心配なさって
観客の前で演奏することに馴れさせようと
南九州ツアーに誘われたことがあったり

エレキに持ちかえたばかりのリードギタリストもさりながら
ついこの前までリードギタリストだったドラマーを
不安に思われた方も少なくなかったみたいで(失礼!)

サンデーフォークの桑原宏司さんは
当時、ご自身のバンドでドラムを担当なさっていたこともあり
東海ラジオの公録で初めて甲斐バンドをご覧になった時に
「松藤ばかり見ていた
余りうまくなかったのでドラムの叩き方を教える風な話をした」と…(笑)

でもその後、スタッフとして豊橋でのステージをご覧になり
「ハッキリこれはモノになると確信できた」そうだし
名古屋市民会館では「ここまで来たと涙が出た
感動してしまって、気づいた時には警備しきれないくらいになってて
胃が痛くなって倒れてしまった(汗)
壮絶に感動的だったんだよ」と話されてます

以前に甲斐さんが東海ラジオの「聞いてみや~ち」で
「松藤にドラムを教えたイベンターがいる」とおっしゃってましたよね(笑)

その桑原さんがご覧になった公録番組の加藤ディレクター?は
ハッピーフォークの全国大会で審査員を務めておられ
「甲斐のアマチュアとは思えないふてぶてしさと生意気さに(笑)
何だ?!と思いながら圧倒された」そうで

「名古屋出身のバンドに最高点をつけてたんだけど
九州代表で甲斐が出てブッ飛んじゃって
これを1位にしないと僕のプライドが許さない(笑)って1位にした」んだとか…

でも、上記のラジオ番組の際には
「ふてぶてしさよりも、可愛らしい感じがしていた(笑)
やはり、プロになったプレッシャーがあったんだろうね
どこかオドオドした感じで
今とは別人のようだけど…(笑)」とおっしゃってます(笑)

ちなみに…その時の演奏曲は、魔女の季節
No.1のバラード、スウィート・キャンディ、あの頃、バス通り…で
奧さんによれば、当時まだアルバムに収録されてなかった
スウィート・キャンディは秘かな人気曲だったそうだ(笑)

その半年後に再び、ハイ・ファイ・セットと共にゲストに招かれた際には
トリを甲斐バンドになさったらしく
「甲斐もビックリしてたし、ハイファイの方は憮然としてた
でも、演ってみて、僕の直感は間違ってなかったからね」と加藤さん

観客の前で生で演奏し歌う時の甲斐バンドの魅力を
いち早く見抜いておられたんでしょうね?

それはさておき、吉田昌佐美さん(BEATNIK編集部)によると…
初期の甲斐バンドのコンサートには、カセットテープだけでなく(笑)
「甲斐さんに当たると可哀想だから(笑)
芯を抜いた紙テープを抱えていく」のがフツーだったようですが(笑)

田家さんも亀和田さんも
チャンとホールでのライブをご覧になったのは、79年の3月で
「もうその頃にはテープなんか飛んでなかった」と…
もっとも、地方ではまだ乱れ飛んでたみたいだけど(笑)

でも、甲斐さんが何かおっしゃったんじゃなく
いつの間にか?その習慣はなくなって
奧さんも自然と紙テープに金紙銀紙を巻き込む作業をしなくなったという

当時は「会場が汚れて、床が下がるバンド」として
悪名をとどろかせておられたようで(苦笑)

奧さんは偶然、甲斐さんのギターのネックにかかったテープだけ
慎重に回収して大事に保管したみたいだけど(苦笑)
吉田さんは後片付けを手伝われたことがおありらしいです

「プロマイドなんかないバンドだったし(笑)
雑誌だってそんなに滅多に載らなかったから
自分で撮った写真が生命だった」っていうのも
奧さんの「三種の神器(笑)」話と同じなんですが

地方在住の小~中学生が、そうそうライブに行ける訳もなく
「2部構成で3時間くらいやってた」とか
「甲斐さんが生ギターを持ってて
ほのぼのとしたアコースティックな雰囲気だった」とか
「ほとんど話さない人だという印象があった」との証言に驚いたらしい

ただ、途中の大森さんのソロタイムには
甲斐さんがステージを下がられることや
アンコールで発売前の新曲を歌われたり
急に予定にない曲を歌うと宣言なさって、メンバーの皆さんを慌てさせたり(笑)

「週末とテレフォン・ノイローゼのどっちがいい?」ではなかったものの
「何でも好きな曲言ってみて(笑)
俺が歌いたいと思ったら歌うから」と
リクエストに応えてもらったり

「誘惑」をリリースされた後から
「コンサートがどんどん凄くなっていった」というのは経験済みなんだとか…(笑)

このVol.14と翌月のVol.15には「取材メモ」として
ライブの印象的な出来事やエピソードが紹介されてるんだけど

78年8月5日の札幌市民会館では…
甲斐よしひろが「サルビアの花」を歌った後
打ち合わせもなしに「二色の灯」をやろうと言い出し(笑)

戸惑う大森信和に「同じバンドの仲間だからといって
定められた日常の通りにステージが動くと思ったら大間違いだ」とゲキ(笑)

大森信和は何とか、これを弾きこなした…と書かれてるし
この手のサプライズは珍しくなかったんでしょうか?(笑)

ともあれ「あんまり昔の話ばかりだと
終わったみたいな気になっちゃうんじゃないかな?」と吉田さん

でも、田家さんも亀和田さんも
「前から聴いてるから偉いとか
最近だから恥ずかしいってことじゃなくて
ただ、前はこうでした…というのを
見た人が見てない人に伝える必要はあると思うんだよね」とおっしゃってます

…という訳で、次回は「取材メモ」を中心にご紹介しますね…たぶん…(笑)
























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機関紙BEATNIKその4

2016-01-21 11:57:46 | 日記
相変わらずのゆるゆるダラダラですが
次、行ってみよ!(笑)という訳で
1983年第1弾…1月号は休刊だったのか?Vol.14は2月付けになっていて

表紙には「すべてをつかめそうだった
だからすべてを捨てるのだ」というスプリングスティーンの言葉…

甲斐バンドをパワーステーションに…というより
ボブ・クリアマウンテンに導いたアルバム「ザ・リバー」

ブルースは、このアルバムについて
「ロックンロールはいつも楽しく、確かにハッピーだ
人生においては最も素晴らしいものだな
だけど、ロックには厳しさや無情さ、そして孤独感もあるんだ
俺は、人生にはこんな矛盾があるという理解にたどり着いた
君らも同じことだぜ」と語っていて

その次にリリースされたのは
ブルースが自宅の寝室で録音したという「ネブラスカ」

カポーティの「冷血」を思わせる暗いリズムタッチにより
アメリカの影の部分を歌おうとした…とか
アメリカン・ドリームの裏側を見ようとした…と評されたり
自らが生み出してしまった誤ったイメージを
振り払おうとしていたのではないか?と言われたアルバムです

このアルバムや上記のブルースの言葉には
「ショートレンジからロングレンジへ」シフトチェンジなさった
甲斐さんご自身に重なる部分がおありだったのかなあと…

そのVol.14の特集は「History of The Stage」
この年は、甲斐バンドがライブ活動を始めて10年目にあたるとのことで

その「数え切れないくらいのステージを
数えてみようということになった」らしく
いつ、どこで、何を、どんな順番で歌ったのか?
資料として読者からもデータが募集されたようです

まず、紙面に登場されたのは吉田昌佐美さん(BEATNIK編集部)で
「曲目をメモしてはいないけど、テープはかなり録ってる」と…(笑)
「テープってコンサートの?」という驚きをよそに
「東京だけじゃなくて、地方もそうだったみたいだね」…確かに…(笑)

この対談の傍に、1974年8月31日福岡電気ホールでの
甲斐バンド「出発コンサート」のセトリが掲載されてるんだけど
ナゼか我が家にもこのカセットテープが…(笑)

この「まだ見ぬアーティスト」のコンサートを「仕事とカンケーなく
初めて遠くまで見に行った」湊剛さんは…
「当時のフォークのコンサートのわかり合い方の基本は
[みんな仲良し]といったニュアンスだった」

でも「そんなイメージは、甲斐がステージに出て来た途端にブチ壊されたね
怒鳴るわ、バカ呼ばわりするわ、ずいぶんな奴だと思ったよ(笑)
上手い下手以前にナマイキだと思った
デカイ面してると言うか(笑)
それが新鮮と言えば新鮮だった」

「会場は立ち見が出ているし、開演前からハンパな盛り上がりじゃなかったから
アマチュアなのにスゴイとしか言えなかったね
何でこんなに熱狂的なのかというのは、曲を聴いて判った」

「吟遊詩人の唄、魔女の季節、バス通り、あの頃…の4曲は印象的だった
すぐに曲目が出て来る、はっきり覚えてる」

「終わってから、彼が来て挨拶した
オハヨーゴザイマスと言ったか、セリフは覚えてないのだが
物おじしない態度が珍しいと思った
それでいてイヤ味のなさは爽快でもあったね(笑)」

「彼が東京に来て、すぐに特番を作った
その時もNHKの大きなスタジオで
自分のウチみたいな態度をしていた(笑)のが
今でも強烈に残っている」と話されてるんだけど

初対面で甲斐さんに呼び捨てにされた(笑)西田四郎さんも
「全然驚かなかったし、イヤな感じはしなかった
あいつらしいなと思ったよ」とおっしゃってたし(笑)

チューリップの皆さんと照和に行かれ
甲斐さんのステージの途中に入店なさって
「うるさいなあ、お前たち!」と一喝された時にも
「こいつ、面白いなあと思った」らしく(笑)

「その堂々としたステージぶりに
この男と契約を結ぶことが使命だ」と思われ
出発コンサートをご覧になった後には
「この男たちと契約できたことが誇らしかった」と話されてます

岸川均さんによると…
「(出発コンサートという)タイトルは
福岡から出るというニュアンスの強いコンサートだった」

「ハッピーフォークで甲斐よしひろが優勝してから
初めてバンドという形でやったコンサートだと思う
そういう意味では緊張していたんでしょう」とのことですが

「荒馬のように」で甲斐さんは…
「デビューした日が、バンド全員が顔を合わせた日という
信じられないような状況でね
本当に上手くいくかどうか、物凄く不安はあった」と記されてます

ともあれ「たしか料金を取るか取らないかで
大変モメたことを覚えてます」と岸川さん

「この当時はまだ、入場料を取ること自体スゴイことだったし
ましてや甲斐バンドはまだアマチュアだった訳だから
モメた末に結局、¥500の入場料を取ったんだけど
1,200人くらいのホールが超満員だったのだから
当時の甲斐の人気のほどが窺えますね」

「陽水、チューリップ、海援隊、リンドンと東京に出て行って
行くぞ!みたいな意気込みがあった
ステージのことは不思議に覚えてないんだけど、曲目を度外視して凄かった」

「色んな九州出身のバンドのコンサートを見て来ましたが
例えば、チューリップと比較すると
チューリップは2時間やれば、全部計算されていて
わりと安心して見ていられるのに
甲斐バンドの場合は、最初から最後までスリルや緊張感があって面白かった」

「みんなプロになって、福岡でコンサートをする時は
帰って来たよ…みたいなことをステージで言うのに
甲斐は一度も言ったことがないというのが
他のグループやアーティストと
ハッキリ違う所だろうと思っている」
…とおっしゃってるんだけど

博多を出られる際に「自分の歩んで行こうとする道を
後ろから情愛に引っ張られてしまうのが、すごく怖かった」と甲斐さん
お母様にも当時の恋人だった女性にも
「手紙や電話を寄越すな」と言い置いて上京なさったんですよね

それは、まだ「関門海峡を越えるというのは大変なこと」だった頃
「生半可な気持ちでは絶対にダメだし
家を、親を、故郷を、ともかく何かを捨てなければいけない」という覚悟で
「東京」と戦うためだったんでしょうし

西田さん渾身の?「九州最後のスーパースター」というキャッチコピーに
「肩引いたよね(笑)」との思いもおありだったみたいだし
「馴れない東京の空気に苦しめられている」時に
「お帰りなさいと言われるとやりきれなくなる」とおっしゃったことも…

でも「デビュー以前にコンサートに来てくれた人達
そのコンサートを手助けしてくれた連中や当時の恋人…
俺が苦しい時代に親切にしてくれた人達を絶対に忘れないよ

俺は彼らをしょいこんで生きていかなければならないと思ってるし
歌を通して、俺が歌いつづけることによって恩返ししたいのね
俺に出来るのはそれだけしかない」と話されてるし

実際、博多に帰られた際には必ず
岸川さん始め、お世話になった方々を訪ねられたり
喜柳に立ち寄られたりなさってたんですよね

…って、また話が長くなってしまいました(苦笑)
吉田さんの対談もまだサワリしか書いてないのに…(笑)
まだ当分?こんなペースになるかと思いますが
おひまな時にでもお付き合いください

































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