相変わらずのゆるゆるダラダラですが
次、行ってみよ!(笑)という訳で
1983年第1弾…1月号は休刊だったのか?Vol.14は2月付けになっていて
表紙には「すべてをつかめそうだった
だからすべてを捨てるのだ」というスプリングスティーンの言葉…
甲斐バンドをパワーステーションに…というより
ボブ・クリアマウンテンに導いたアルバム「ザ・リバー」
ブルースは、このアルバムについて
「ロックンロールはいつも楽しく、確かにハッピーだ
人生においては最も素晴らしいものだな
だけど、ロックには厳しさや無情さ、そして孤独感もあるんだ
俺は、人生にはこんな矛盾があるという理解にたどり着いた
君らも同じことだぜ」と語っていて
その次にリリースされたのは
ブルースが自宅の寝室で録音したという「ネブラスカ」
カポーティの「冷血」を思わせる暗いリズムタッチにより
アメリカの影の部分を歌おうとした…とか
アメリカン・ドリームの裏側を見ようとした…と評されたり
自らが生み出してしまった誤ったイメージを
振り払おうとしていたのではないか?と言われたアルバムです
このアルバムや上記のブルースの言葉には
「ショートレンジからロングレンジへ」シフトチェンジなさった
甲斐さんご自身に重なる部分がおありだったのかなあと…
そのVol.14の特集は「History of The Stage」
この年は、甲斐バンドがライブ活動を始めて10年目にあたるとのことで
その「数え切れないくらいのステージを
数えてみようということになった」らしく
いつ、どこで、何を、どんな順番で歌ったのか?
資料として読者からもデータが募集されたようです
まず、紙面に登場されたのは吉田昌佐美さん(BEATNIK編集部)で
「曲目をメモしてはいないけど、テープはかなり録ってる」と…(笑)
「テープってコンサートの?」という驚きをよそに
「東京だけじゃなくて、地方もそうだったみたいだね」…確かに…(笑)
この対談の傍に、1974年8月31日福岡電気ホールでの
甲斐バンド「出発コンサート」のセトリが掲載されてるんだけど
ナゼか我が家にもこのカセットテープが…(笑)
この「まだ見ぬアーティスト」のコンサートを「仕事とカンケーなく
初めて遠くまで見に行った」湊剛さんは…
「当時のフォークのコンサートのわかり合い方の基本は
[みんな仲良し]といったニュアンスだった」
でも「そんなイメージは、甲斐がステージに出て来た途端にブチ壊されたね
怒鳴るわ、バカ呼ばわりするわ、ずいぶんな奴だと思ったよ(笑)
上手い下手以前にナマイキだと思った
デカイ面してると言うか(笑)
それが新鮮と言えば新鮮だった」
「会場は立ち見が出ているし、開演前からハンパな盛り上がりじゃなかったから
アマチュアなのにスゴイとしか言えなかったね
何でこんなに熱狂的なのかというのは、曲を聴いて判った」
「吟遊詩人の唄、魔女の季節、バス通り、あの頃…の4曲は印象的だった
すぐに曲目が出て来る、はっきり覚えてる」
「終わってから、彼が来て挨拶した
オハヨーゴザイマスと言ったか、セリフは覚えてないのだが
物おじしない態度が珍しいと思った
それでいてイヤ味のなさは爽快でもあったね(笑)」
「彼が東京に来て、すぐに特番を作った
その時もNHKの大きなスタジオで
自分のウチみたいな態度をしていた(笑)のが
今でも強烈に残っている」と話されてるんだけど
初対面で甲斐さんに呼び捨てにされた(笑)西田四郎さんも
「全然驚かなかったし、イヤな感じはしなかった
あいつらしいなと思ったよ」とおっしゃってたし(笑)
チューリップの皆さんと照和に行かれ
甲斐さんのステージの途中に入店なさって
「うるさいなあ、お前たち!」と一喝された時にも
「こいつ、面白いなあと思った」らしく(笑)
「その堂々としたステージぶりに
この男と契約を結ぶことが使命だ」と思われ
出発コンサートをご覧になった後には
「この男たちと契約できたことが誇らしかった」と話されてます
岸川均さんによると…
「(出発コンサートという)タイトルは
福岡から出るというニュアンスの強いコンサートだった」
「ハッピーフォークで甲斐よしひろが優勝してから
初めてバンドという形でやったコンサートだと思う
そういう意味では緊張していたんでしょう」とのことですが
「荒馬のように」で甲斐さんは…
「デビューした日が、バンド全員が顔を合わせた日という
信じられないような状況でね
本当に上手くいくかどうか、物凄く不安はあった」と記されてます
ともあれ「たしか料金を取るか取らないかで
大変モメたことを覚えてます」と岸川さん
「この当時はまだ、入場料を取ること自体スゴイことだったし
ましてや甲斐バンドはまだアマチュアだった訳だから
モメた末に結局、¥500の入場料を取ったんだけど
1,200人くらいのホールが超満員だったのだから
当時の甲斐の人気のほどが窺えますね」
「陽水、チューリップ、海援隊、リンドンと東京に出て行って
行くぞ!みたいな意気込みがあった
ステージのことは不思議に覚えてないんだけど、曲目を度外視して凄かった」
「色んな九州出身のバンドのコンサートを見て来ましたが
例えば、チューリップと比較すると
チューリップは2時間やれば、全部計算されていて
わりと安心して見ていられるのに
甲斐バンドの場合は、最初から最後までスリルや緊張感があって面白かった」
「みんなプロになって、福岡でコンサートをする時は
帰って来たよ…みたいなことをステージで言うのに
甲斐は一度も言ったことがないというのが
他のグループやアーティストと
ハッキリ違う所だろうと思っている」
…とおっしゃってるんだけど
博多を出られる際に「自分の歩んで行こうとする道を
後ろから情愛に引っ張られてしまうのが、すごく怖かった」と甲斐さん
お母様にも当時の恋人だった女性にも
「手紙や電話を寄越すな」と言い置いて上京なさったんですよね
それは、まだ「関門海峡を越えるというのは大変なこと」だった頃
「生半可な気持ちでは絶対にダメだし
家を、親を、故郷を、ともかく何かを捨てなければいけない」という覚悟で
「東京」と戦うためだったんでしょうし
西田さん渾身の?「九州最後のスーパースター」というキャッチコピーに
「肩引いたよね(笑)」との思いもおありだったみたいだし
「馴れない東京の空気に苦しめられている」時に
「お帰りなさいと言われるとやりきれなくなる」とおっしゃったことも…
でも「デビュー以前にコンサートに来てくれた人達
そのコンサートを手助けしてくれた連中や当時の恋人…
俺が苦しい時代に親切にしてくれた人達を絶対に忘れないよ
俺は彼らをしょいこんで生きていかなければならないと思ってるし
歌を通して、俺が歌いつづけることによって恩返ししたいのね
俺に出来るのはそれだけしかない」と話されてるし
実際、博多に帰られた際には必ず
岸川さん始め、お世話になった方々を訪ねられたり
喜柳に立ち寄られたりなさってたんですよね
…って、また話が長くなってしまいました(苦笑)
吉田さんの対談もまだサワリしか書いてないのに…(笑)
まだ当分?こんなペースになるかと思いますが
おひまな時にでもお付き合いください
次、行ってみよ!(笑)という訳で
1983年第1弾…1月号は休刊だったのか?Vol.14は2月付けになっていて
表紙には「すべてをつかめそうだった
だからすべてを捨てるのだ」というスプリングスティーンの言葉…
甲斐バンドをパワーステーションに…というより
ボブ・クリアマウンテンに導いたアルバム「ザ・リバー」
ブルースは、このアルバムについて
「ロックンロールはいつも楽しく、確かにハッピーだ
人生においては最も素晴らしいものだな
だけど、ロックには厳しさや無情さ、そして孤独感もあるんだ
俺は、人生にはこんな矛盾があるという理解にたどり着いた
君らも同じことだぜ」と語っていて
その次にリリースされたのは
ブルースが自宅の寝室で録音したという「ネブラスカ」
カポーティの「冷血」を思わせる暗いリズムタッチにより
アメリカの影の部分を歌おうとした…とか
アメリカン・ドリームの裏側を見ようとした…と評されたり
自らが生み出してしまった誤ったイメージを
振り払おうとしていたのではないか?と言われたアルバムです
このアルバムや上記のブルースの言葉には
「ショートレンジからロングレンジへ」シフトチェンジなさった
甲斐さんご自身に重なる部分がおありだったのかなあと…
そのVol.14の特集は「History of The Stage」
この年は、甲斐バンドがライブ活動を始めて10年目にあたるとのことで
その「数え切れないくらいのステージを
数えてみようということになった」らしく
いつ、どこで、何を、どんな順番で歌ったのか?
資料として読者からもデータが募集されたようです
まず、紙面に登場されたのは吉田昌佐美さん(BEATNIK編集部)で
「曲目をメモしてはいないけど、テープはかなり録ってる」と…(笑)
「テープってコンサートの?」という驚きをよそに
「東京だけじゃなくて、地方もそうだったみたいだね」…確かに…(笑)
この対談の傍に、1974年8月31日福岡電気ホールでの
甲斐バンド「出発コンサート」のセトリが掲載されてるんだけど
ナゼか我が家にもこのカセットテープが…(笑)
この「まだ見ぬアーティスト」のコンサートを「仕事とカンケーなく
初めて遠くまで見に行った」湊剛さんは…
「当時のフォークのコンサートのわかり合い方の基本は
[みんな仲良し]といったニュアンスだった」
でも「そんなイメージは、甲斐がステージに出て来た途端にブチ壊されたね
怒鳴るわ、バカ呼ばわりするわ、ずいぶんな奴だと思ったよ(笑)
上手い下手以前にナマイキだと思った
デカイ面してると言うか(笑)
それが新鮮と言えば新鮮だった」
「会場は立ち見が出ているし、開演前からハンパな盛り上がりじゃなかったから
アマチュアなのにスゴイとしか言えなかったね
何でこんなに熱狂的なのかというのは、曲を聴いて判った」
「吟遊詩人の唄、魔女の季節、バス通り、あの頃…の4曲は印象的だった
すぐに曲目が出て来る、はっきり覚えてる」
「終わってから、彼が来て挨拶した
オハヨーゴザイマスと言ったか、セリフは覚えてないのだが
物おじしない態度が珍しいと思った
それでいてイヤ味のなさは爽快でもあったね(笑)」
「彼が東京に来て、すぐに特番を作った
その時もNHKの大きなスタジオで
自分のウチみたいな態度をしていた(笑)のが
今でも強烈に残っている」と話されてるんだけど
初対面で甲斐さんに呼び捨てにされた(笑)西田四郎さんも
「全然驚かなかったし、イヤな感じはしなかった
あいつらしいなと思ったよ」とおっしゃってたし(笑)
チューリップの皆さんと照和に行かれ
甲斐さんのステージの途中に入店なさって
「うるさいなあ、お前たち!」と一喝された時にも
「こいつ、面白いなあと思った」らしく(笑)
「その堂々としたステージぶりに
この男と契約を結ぶことが使命だ」と思われ
出発コンサートをご覧になった後には
「この男たちと契約できたことが誇らしかった」と話されてます
岸川均さんによると…
「(出発コンサートという)タイトルは
福岡から出るというニュアンスの強いコンサートだった」
「ハッピーフォークで甲斐よしひろが優勝してから
初めてバンドという形でやったコンサートだと思う
そういう意味では緊張していたんでしょう」とのことですが
「荒馬のように」で甲斐さんは…
「デビューした日が、バンド全員が顔を合わせた日という
信じられないような状況でね
本当に上手くいくかどうか、物凄く不安はあった」と記されてます
ともあれ「たしか料金を取るか取らないかで
大変モメたことを覚えてます」と岸川さん
「この当時はまだ、入場料を取ること自体スゴイことだったし
ましてや甲斐バンドはまだアマチュアだった訳だから
モメた末に結局、¥500の入場料を取ったんだけど
1,200人くらいのホールが超満員だったのだから
当時の甲斐の人気のほどが窺えますね」
「陽水、チューリップ、海援隊、リンドンと東京に出て行って
行くぞ!みたいな意気込みがあった
ステージのことは不思議に覚えてないんだけど、曲目を度外視して凄かった」
「色んな九州出身のバンドのコンサートを見て来ましたが
例えば、チューリップと比較すると
チューリップは2時間やれば、全部計算されていて
わりと安心して見ていられるのに
甲斐バンドの場合は、最初から最後までスリルや緊張感があって面白かった」
「みんなプロになって、福岡でコンサートをする時は
帰って来たよ…みたいなことをステージで言うのに
甲斐は一度も言ったことがないというのが
他のグループやアーティストと
ハッキリ違う所だろうと思っている」
…とおっしゃってるんだけど
博多を出られる際に「自分の歩んで行こうとする道を
後ろから情愛に引っ張られてしまうのが、すごく怖かった」と甲斐さん
お母様にも当時の恋人だった女性にも
「手紙や電話を寄越すな」と言い置いて上京なさったんですよね
それは、まだ「関門海峡を越えるというのは大変なこと」だった頃
「生半可な気持ちでは絶対にダメだし
家を、親を、故郷を、ともかく何かを捨てなければいけない」という覚悟で
「東京」と戦うためだったんでしょうし
西田さん渾身の?「九州最後のスーパースター」というキャッチコピーに
「肩引いたよね(笑)」との思いもおありだったみたいだし
「馴れない東京の空気に苦しめられている」時に
「お帰りなさいと言われるとやりきれなくなる」とおっしゃったことも…
でも「デビュー以前にコンサートに来てくれた人達
そのコンサートを手助けしてくれた連中や当時の恋人…
俺が苦しい時代に親切にしてくれた人達を絶対に忘れないよ
俺は彼らをしょいこんで生きていかなければならないと思ってるし
歌を通して、俺が歌いつづけることによって恩返ししたいのね
俺に出来るのはそれだけしかない」と話されてるし
実際、博多に帰られた際には必ず
岸川さん始め、お世話になった方々を訪ねられたり
喜柳に立ち寄られたりなさってたんですよね
…って、また話が長くなってしまいました(苦笑)
吉田さんの対談もまだサワリしか書いてないのに…(笑)
まだ当分?こんなペースになるかと思いますが
おひまな時にでもお付き合いください