ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

J-POP LEGEND FORUM(6/21)その6

2021-08-02 15:11:00 | メディア
甲斐バンド9枚目のアルバム「『虜』の中の曲をもう1曲お聴き頂きます」と田家さん
「観覧車'82」を流されたあと「この曲はですね
81年のアルバム『破れたハートを売り物に』の中にも入っておりますけども
機会があったらですね、2曲を聴き比べて頂けると面白いと思いますね」

…と、おっしゃってましたが、甲斐さんは当時のインタビューで
「(アルバム)『破れたハートを売り物に』の曲の中で、一番最後に書いた
『観覧車』が引き金になってる…(新しい)LPのドアを開けるカギなんだよ」とか
「『破れたハートを売り物に』っていうアルバムを改めて聴いてみたら、すごい暗くて…
俺、あんなに暗いなんて思ってなかった」と話されていて

「全ては『破れたハートを売り物に』から始まった」というニューヨーク三部作への道は
楽曲としての「破れたハートを売り物」に
ボブが興味を持って、日本からのオファーを受け入れたことはもちろん
甲斐さんが、この曲をナンとかイメージ通りの音にしたいと思われたというだけでなく
アルバムとしての「破れたハートを売り物に」でやろうとなさったことを
更にグレードアップした形で表現するためにお選びになった最も適切な手段というなのかなあと…?

実際、田家さんも「音像が全然違いますね。映像感、広がり方、エコー…
このボブ・クリアマウンテンはですね、当時、ロキシー・ミュージック
ローリング・ストーンズ、デヴィッド・ボウイ
こういう人たちのですね、アルバムを手がけて
世界のロックファンから脚光を浴びてたんですね
ロキシー・ミュージックの『アヴァロン』デヴィッド・ボウイの『Let's Dance』とか
それまでのロックアルバムとは全然違う音が聞こえて来たアルバムでした」と紹介なさってました

「甲斐バンドがニューヨークに行って、ボブ・クリアマウンテンと一緒にやる前に
ボブ・クリアマウンテンが手がけていたのが
ローリング・ストーンズの『スティル・ライフ』でした
1981年の夏からずっと連絡を取って、トラックダウンをお願いしていて
結局、1982年になってしまったのは、そういうスケジュールが詰まっていたからなんですね

…って、甲斐バンドがニューヨークに到着された時点では
まだストーンズのミックスが終わってなくて、数日の待機を余儀なくされたものの
ミックから「Thank you! Japanese」というメッセージ付きの
紅茶セットをプレゼントされたんですよね?

小学生の頃に「価値観を揺さぶられた」相手からプレゼントを貰ったこと以上に
その相手と同じ場所で、ご自身もお仕事をなさるということを嬉しく思われたんじゃないかと…?
まあ、そもそもストーンズの「スタート・ミー・アップ」をお聴きになって
ボブにコンタクトをお取りになったんだけど…(笑)

ともあれ…「きっかけになったのが、1曲目にお聴き頂いた『破れたハートを売り物に』で
パーカッションの音の響き方や広がり方は
当時の日本のエンジニアでは、なかなか思うように出来なかった
あのアルバムでは、エンジニアが3人代わってます
どうしても本物のロックの音にしたいということで、ボブの元に辿り着いた訳です
甲斐さんは『俺たちはニューヨークに行くんじゃない
ボブと仕事をしに行くんだ』と、ずっと言ってましたね

幸い、私も取材でスタジオにいたんですが
トラックダウンの1曲目が、この『観覧車'82』だったんです
松藤英男さんが、呆然とした表情でロビーに来て
『ワシのドラムがロキシー・ミュージックになってしまった』と言っていたのを今でも思い出します

1980年代、エンジニアの時代が訪れた
1980年にオフコースが、ボブ・スキャッグスと一緒にやっていたビル・シュネーと組んで
『We are』というアルバムを作ったんですけど
『We are』を聴いた時にですね『えっ!?なに?このドラムの音!?』と思ったんですが
この『虜』の驚きはですね、その比ではありませんでしたと話されてましたけど

当時の奥さんの記憶では、田家さんが、この番組でたびたび口になさったように
「ライターの力量不足」だったのか?各音楽雑誌や機関紙「BEATNIK」の中でさえ
アルバムの内容云々よりも「レコーディングのために休業していた甲斐バンドがツアー再開」
…といったニュースや「虜」のジャケットに関する話題

…って、これは「特製のフィルムシート」を3枚重ね合わせると
ロープに縛られた(笑)若き日の余貴美子さんの姿が浮かび上がるという
初回プレス限定20万枚に付いていた特典が「出来ない」という問合せが殺到した(笑)とか
そのアイデアが評価され、プロのデザイナーでも受賞が難しい広告賞に輝いた…
といったことがメインに扱われていたらしく(苦笑)
「今思えば、内容は『聴けば絶対判る!』と考えていたのかなあ?」と奥さん(苦笑)

もちろん、音が変わったことは実感したみたいですが
ハードボイルド色が強まった歌詞には、すぐには馴染めなかったようで(苦笑)
今では信じられないことに「ブルー・レター」も「無法者の愛」も
「ブライトン・ロック」も「荒野をくだって」さえも「何これ?」と思ったんだとか…(笑)

「虜」の発売日は、奥さんが参戦するライブ当日にあたっていたため
会場に向かう途中、レコード店で予約していたアルバムを受け取り
ライブ中に破損しやしないかと少し心配しつつも
帰宅して新盤が聴けることを楽しみにしていたら
「このためにライブを半年もガマンしたの?」…みたいな気分になったらしい(苦笑)

もっとも、その後、アルバムを聴き込んだり、ある程度?年齢を重ねたり
それに、何よりもライブで、このアルバムの中の曲が取り上げられたことで
曲に対する印象がガラリと変わったようで
「生きてる観客の前で演奏して初めて曲が完成する」という甲斐さんの言葉は
観客の側にも当てはまるのかも知れないなあと…?

それはさておき…「エポックメイキングだったニューヨーク三部作
この話は来週もお聴き頂こうと思うんですが
今日最後の曲はですね、さっきちょっとお話しした
1980年の『地下室のメロディー』の中の『漂泊者』…1985年の新国技館ライブ
45周年ライブベスト『CIRCUS & CIRCUS 2019』からお聴き頂きます」と田家さん

曲明けには「ハイ、ライブバージョンということで、ギター、田中一郎…
両国のですね、国技館がコンサートに使われた最初がですね、この甲斐バンドでありました
NHKホールもそうでしょ、それから武道館の2日間、それもそうですね
それから花園ラグビー場…甲斐バンドがですね
初めてコンサートに使ったという、それぞれの会場ですね

82年のアルバム『虜』83年『GOLD』85年の『ラブ・マイナス・ゼロ』…その間にですね
1983年の野外ライブ『BIG GIG』というのがあったんですが、この話は来週です
70年代から80年代にかけての新しい時代を切り開いた栄光のロックバンド…甲斐バンドパート3
今回は、1980年から82年をお送りしました

1980年代というのはですね、音楽を取り巻く環境も激変した、そんな年でしたね
79年…78年くらいかな?デジタルというのがですね
レコーディングの現場で取り入れられるようになった
それから演奏にですね、コンピュータというのが占めるようになって来た

1980年のですね、年間のアーティストセールス…
まっ、その年、一番レコードを売ったアーティストというのがですね
どなただったか、覚えてらっしゃいますか?
YMOなんですよ、1位…総アーティストセールス
2位がね、引退で日本中を沸かせた山口百恵さん
その山口百恵さんを抑えて、YMOがですね、年間アーティストセールス1位でですね

YMOというのは、コンピュータを使ってですね、デジタルを使って
一番アナログなダンスミュージックをやろうとした人たちだったんですね
で、甲斐バンドはですね、デジタルを使いながら
それをもっと、更に肉体的な音楽にしようとした
それを更にフィジカルにしようとしたということもですね、YMOと決定的な違いと思いますね

まあ、あの時代の格闘って、色んな形の格闘があったと思いますけども
このデジタルとアナログ、ロックと肉体ということでですね
そこの最も困難な闘いというのを挑んでいたのが
甲斐バンドだったんだなあと改めて思ったりしました
最前線にいましたね、誰も踏み入れたことのない道をですね、進んでいたバンドでありました

えー、今週はですね、今まで12年間の内、10年間を辿ってみたんですが
来週は、83年から86年、最終章であります」…で、第3回目は終了
「Rolling Stone」というサイトには、写真集「1982 BEATNIK」と
花園ライブのカットが使われた、アルバム「破れたハートを売り物に」の歌詞カードを手にされ
ご満悦なご様子の田家さんのお写真がアップされてました(笑)

余談ですが…甲斐さんは「ブライトン・ロック」の歌詞について
吉田拓郎さんの「旅の宿」や「落陽」でお馴染みの作詞家・岡本おさみさんが
「日本で『マシンガン』だなんて、リアリティがない」と評されたことに脱力なさっていたけど(苦笑)

機関紙「BEATNIK」の「MY FAVORITE SONG OF KAI BAND」中で
「とびきり熱く、とびきり過激になろうとしてるが、歌から伝わって来るものは
どちらかと言えば、過剰すぎるほどのロマンと感傷だ
そのセンチメンタリズムを乾いた感じにしようとして、結局、湿ったままの叫びになっている
これが、甲斐よしひろって男なんだ」

…とおっしゃっていて、当時の奥さんが感じた「何これ?」という違和感は
「乾いた感じにしようとして」おられたことが原因だったのかなあと…?

ちなみに、その続きには…「シングルの『ブルー・レター』って歌。田家秀樹と雑談してたら
『八月の濡れた砂とスプリングスティーンを一緒にしたような感じで良いでしょう』なんて言う
田家は甲斐に惚れちまってるから、すべて良いってとこがあるように感じられて
それは良いことだと思うけど、スプリングスティーンはどうかと思う

『八月の濡れた砂』はドンピシャ、その通りだ
しかし、藤田敏八(監督)ほど残酷じゃない
『その年お前を孕ませてしまうまで』っていう一行はとても素敵だが
全体の言葉から匂って来るのは、やっぱり感傷だ」…と記されていて
ホントに「FAVORITE SONG」についての投稿なのかと心配になるほどだけど(笑)

岡本さんのイチオシは「破れたハートを売り物に」で
ちゃんと(笑)「生きることを素晴らしいと思いたい」を含む前後の歌詞を挙げられ
「これだね、甲斐って男は。こいつを弱々しく歌われたんじゃたまったもんじゃない
とびきりの情熱で、高校野球かってくらい汗を流しながら
ハングリーに歌うところに、甲斐バンドのパワーがある
しかし、そう言うと、甲斐は唇をとんがらせて
『俺は無頼で、ならず者で…』と言うかも知れない。しかし、それはハートの中の願望だ

そういう僕も、実はワルにはなりきれなくて、イラついてるって訳だ
気がつくと、悲しみの側からものを見ていて
そいつを吐くことで生業としている
『破れたハートを売り物にして 浮かれた街角でさまよい歌ってる』
まるで、僕自身の歌みたいで、しみるね。泣けるよ
だから、僕も一皮めくりゃあ感傷人間なのさ」…と着地なさってました(笑)
コメント
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