ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

J-POP LEGEND FORUM(6/28)その2

2021-08-04 14:57:00 | メディア
続いては…「ブライトン・ロック」が流され
甲斐バンドパート4…70年代から80年代にかけての新しい時代を切り開いた栄光のロックバンド
『GOLD』(発売)の翌月8月7日にですね、新宿新都心
当時『ZONE』と呼ばれていた所で行われたのが、野外ライブ『THE BIG GIG』でした」と田家さん

「お客さんが21,000人、東京の都心で行われた最初の大規模野外ライブですね
その1曲目が、今お聴き頂いております、82年のアルバム『虜』の中の『ブライトン・ロック』
ニューヨーク三部作の1枚目『虜』の中の曲ですね
アルバム『THE BIG GIG』からお聴き頂いてます

1983年8月7日に東京・新宿新都心都有5号地…今、都庁が建ってる所ですね
当時はですね、もちろん都庁なんて出来てなくてですね
住友三角ビルと京王プラザくらいしかなかったんですね
で、あの一角はですね、周囲にですね、陸橋のように歩道がずっと通っておりまして
ちょっと下がった所に地面があったんですね

で、周りのですね、歩道からステージが見えるんですね
で、お客さんは2万人くらい居たんですけども
その陸橋にはですね、チケットを買ってない人たちが、たあくさん
こう…鈴なりになって様子を見てたというですね(笑)
そういう都心のド真ん中ならではの野外イベントのですね、光景が繰り広げられました」

…と紹介なさってましたが、当初は、その歩道の金網にポスターやカーテン等を巡らし
目隠ししていたものの「かえって混乱を招く恐れがあるため」として
結局「チケットをお買い求めの皆様」へのお詫びと共に
「外野も野次馬もOK!」になったんですよね?(笑)

ちなみに、甲斐さんご自身は「ローカル球場なんかで
木に登って見てるヤツってカッコいいじゃない(笑)」とおっしゃっていたんだとか…(笑)

ただ、お気の毒だったのは、その「外野席」対策として、別の都有地に設置された
「パブリック・ビューイング」に参加なさった方だったんじゃないかと…?(苦笑)
確かに、本会場では見ることが出来ない「アップが楽しめる」(笑)とはいっても
ステージや客席から立ちのぼる熱気は、画面越しでは伝わりにくいような気が…?(苦笑)

ともあれ…「で、そういうイベントの1曲目が、これですよ
マシンガンの銃弾がですね、飛び交う街を歌ってる訳ですね
『俺の導火線に火がついて バチバチ』弾けてるという、そういう登場でした
えー、戦闘開始、肉弾戦というですね、そんな始まりですね

甲斐バンドは『英雄と悪漢』『ガラスの動物園』でですね、東京との肉弾戦というのをですね
東京にどう立ち向かうか?というのを歌にしてましたけども
そういう彼らのですね、東京とのドラマのストーリーもですね
最終決戦っていうのが、ここだったんでしょうね。バチバチ火花を飛ばしとりました」

…と話されてましたが、この頃にはもう甲斐さんは
「東京・福岡・ニューヨークを転々としたい(笑)」と考え始めておられたみたいだし(笑)

ご自身が「前々から目をつけていた」場所での野外ライブ実現のために
ディスクガレージの中西社長が、東京都や警察、消防署などに日参なさって
ようやく開催の許可が下り、ナンとかチケット発売にこぎつけた時には
ご本人たちは、ニューヨークでレコーディング中でいらしたんですよね?(笑)

田家さんが「82年・83年どんな時代だったかと言うとですね
片や、松田聖子さん、中森明菜さん、それからマッチ、トシちゃんというのがですね
チャートを席巻しておりましたね
アイドル新時代という風に言われておりました」と説明なさってましたけど

奇しくも「THE BIG GIG」と同じ日に、後楽園で開催予定だった
たのきんトリオのコンサートは、警備上の問題や安全面の対策など
東京都条例の煩雑な制約により、中止になったらしく
改めて、中西社長のご苦労はいかばかりかと…(汗)

「で、この『BIG GIG』はですね、都会の野外イベントならではだったのが
住友ビルというのが、今もありますけども、あそこのビルをですね、借景したんですね
あそこの壁にですね、こう…照明を当てて、それをこう…まっ、演出効果したという意味では
新宿のド真ん中ならではのイベントでありました」と田家さん

当初、甲斐さんは…「高層ビルに囲まれた
ストリート・ミュージックを思わせる場所だと思っただけ」だったのが
「実際にライブをやってみて『近代建築物があれだけ絵になるんだ』と改めて思い知らされた
周りにビルが並んでるだけで、もう何もいらない
ステージを作っただけで一枚の絵になったし
ビルに照明を当てるだけでバッチリだったもんね」…と話されてました

「で、今の『ブライトン・ロック』…このバチバチ弾けてる
この歌の次に歌われたのが、この歌なんです」
…と「ダイナマイトが150屯」を流されたあと
「これは、81年のアルバム『破れたハートを売り物に』の中に入っていたんですね
この歌はですね、まあ、お若い方はご存知ないと思うんですが
小林旭さんのですね、代表曲なんですね

作詞が関沢新一さん、作曲があの、まっ、演歌の大御所と言われている船村徹さん
でも、こういう曲を若い時は書いてたんですね
日本のロック、血が騒ぐという意味で言うとですね
この『ダイナマイトが150屯』は、日本のロックという風に言っていいでしょうね

あの九州の人の血…っていう風に言うと、他の地方の方は熱くないのか!?
…っていう風になってしまいますね(笑)これは多少問題あるかも知れないですが
やっぱり、その博多の何か熱みたいなものでですね
この曲…甲斐さんがこの曲を選んでるってところがある感じがしましたね

1枚目のライブアルバム『CIRCUS & CIRCUS』の頃は
お客さんがですね、ティーンエイジャーの女の子が多かった
『キャーッ!』っていう黄色い歓声がですね、彼らのライブの1つの象徴でもあった
…という話をしましたが、この頃になるとですね
やはり、少年から男へというような変わり方が伝わって来ますね

お客さんの中にはですね、男の子たちが…まあ、あのー…
決して優等生とは思えないようなですね、男たちが『甲斐ーっ!』って叫んでですね
泣いてるっていうシーンが繰り広げられておりました」…と話されてましたが
奥さんは「HERO」のヒットによって、ライブにやって来られる男性ファンの方が急増した時
その「甲斐ーっ!」という声を聞いて「えっ!?呼び捨て!?」とビックリ!(笑)

まあ、それまで「黄色い歓声」の皆さんは
「甲斐さ~ん!」としか、お呼びになっていなかったみたいだし
当時、親しみを込めて呼び捨てにするというのは
男性ならではの発想だったんじゃないかと…?
もっとも、甲斐さんは「ライブ会場では『甲斐』って呼んでいいけど
会場以外の場所で呼び捨ては勘弁してくれ」とおっしゃっていたそうです(笑)
コメント
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