こちらも、甲斐バンドのベストアルバム発売&ツアーのキャンペーンで
甲斐さんがご出演になったBSNラジオの番組です♪
たぶん?BSNテレビを除けば
これで怒涛のキャンペーン番組は全て網羅できたんじゃないかと…?(笑)
もう1本のBSNの番組「ゆうなびラジオ」は生放送でしたが
この番組は「サロン・ド・かおり」という「憩いのバー」に見立てた演出らしく
人々の話し声やグラスが触れ合う音が流れる中
「じっくり語って頂きましょう♪」って感じ(笑)
ただ、この「ゆうわく伝説」というタイトルといい
【タブー】みたいなジングルといい(笑)
それに、石塚さんは甲斐さんのファンでいらっしゃるようで
「大好き過ぎて緊張してるんですけど…
甲斐よしひろさんです」と紹介なさる声といい
奥さんは、いつぞやの名古屋の某女性DJの方を連想したらしく
「ナンだかなあ…」と気乗りしない様子で聴き始めたんですが(苦笑)
「ゆうわく」は「夕方わくわく」の略だったし(笑)
媚びる調子も、おもねる素振りも感じ取れない
さっぱりした石塚さんの話し方に、一気に好感度アップ(笑)
「地方でこうやってお話するチャンス
あんまりないんじゃないですか?」との質問に
「そうですね、プロモーションとか
そういうのホントにほとんどやらないんで…」と甲斐さん
「今回はですね、4ヵ所ですかね
ナンかね、大阪の生番組で歌ったりとかしましたけどね(笑)」と話され
「さっき、新幹線降りようとしたら
『柏崎行きはナンとか』って言ってたんですよ
考えたら、新潟市内、長岡、上越ってこの3ヵ所
いっつも行ってたんですけど、柏崎もそういえば行ってましたよ
みんな、市内、長岡は行きますよね?上越まで行かないもんね(笑)
ナンか、僕らが行った頃はですよ
ずいぶん昔なんですけど、西部劇の街みたいですよ
雪が多いから、こう…床がちょっと上がってるんですよ
そいで、僕らが見つけたバーが、こういうスウィング・ドアになってた
ホントにスウィング・ドアになってるの…完全に西部劇じゃないですか(笑)
あースゴイなー!と思って…(笑)
それが気に入って行くようになったんですよ」
…と、かつてのツアーでは、ナゼか新潟は
必ず県内3ヵ所でライブが組まれていたことに触れられ(笑)
「気分はガンマン」「アレが噂の左きき(笑)」バーの話も飛び出したのに(笑)
石塚さんは、甲斐さんの声に聴き惚れていらしたのか?(笑)
「こうやってお話してても思うんですけど
甲斐さんの声量って、全く変わらないというか…」とおっしゃって
甲斐さんから「生の声量、聴いたことないでしょ?(笑)」とツッコまれ(笑)
「長くやってる方って、再結成とか…あるじゃないですか
(昔と)何かが違うな?…とかって…」と石塚さん
甲斐さんは「僕に何か言わせたがってますよね?(笑)
あの…声が出てない人とか、そういうことですよね?」と
結局、言わされておられました(笑)
「1974年に【バス通り】…甲斐バンドでデビューってことなんですけど…」と言われて
「僕、元々、ソロシンガーで
レコード会社との契約もソロでするはずだったんですけど
その時はもう、結構な感じで飽きてたんですよ(笑)
頭の中でバンドのサウンドがずっと鳴ってたんで…
元々、弾き語りスタイルじゃないんですけど…
アマチュア・フォーク・コンテストで優勝したんで
色んなレコード会社、来て貰って
その時にもう、バンドを組むって決めてたんで…
で、照和っていう、博多にライブハウスあるんですけど…」とおっしゃった途端
「ハイ!行ったことあります!」と石塚さん(笑)
甲斐さんに「ほぅー、なるほど…修学旅行かナンかで?」と訊ねられ
「違います、大人になってからですけど
まさか、甲斐さんにその話をすることになるなんて…
ホントに感動しましたから…あすこ行った時は…
だって『甲斐バンドもココからでしょ』って思ったら…」と
聖地巡礼をなさった時のコーフンを思い出されたご様子(笑)
まあ、甲斐さんはいつも通り、その手の話はスルーされ(笑)
「それで…そのね、僕入れて4人なんで、他3人必要な訳じゃないですか
で、優秀なヤツを3人、1人ずつ抜いて行ったら
ま、3つのバンドが残念ながら潰れて行った…(笑)
よくある、よくある、地方にある弱肉強食なライブシーンの話ですが…(笑)」
…と、皆さま、よくご存知の甲斐バンド結成秘話(笑)を披露され
更に「元々、そのリードギターの大森さんと
ベースの長岡は、僕より年上なんですけど
2人でこれ下宿、太陽荘って下宿にいたんですよ
全然、太陽らしからぬアパートなんですけど…(笑)
そこに、しょっちゅう遊びに行ってたんですよ
だから、基本的に『バンド組もう!バンド組もう!』っていう
雰囲気から始まってるんで…僕が言い出す前に…
って感じなんですよ」…という話も登場し
「オリジナル甲斐バンド」に思い入れの強い(笑)我が家の住人は
「そうそう!大森さんのことは『大森さん』なのに
長岡さんのことは『長岡』って言ってた!(笑)」やら
「じっくり曲を聴きたい時は大森さんの部屋へ行って
騒ぎたい気分の時は長岡さんの部屋に行ってたらしいよ(笑)」やら
「バス停のベンチを盗みに行った頃だよね(笑)」等々
もう、ウルサイ、ウルサイ…(苦笑)
余談ですが…昔の写真集に長岡さんが書かれた博多の地図が載っていて
発売当時は、その写真集を買えなかった奥さんが
ン十年経って、古本屋で見つけた時
その地図の中に、長岡さんの行きつけらしき?お店が書き込まれてるのを見て
思わず「ええーっ!?」と声を挙げてしまったらしいんだけど(苦笑)
それは、奥さんが中学の修学旅行以来、初めて博多へ旅行した際に
たまたま、通りがかってフラッと立ち寄ったお店と
同じお店だったからみたいです(笑)
それはさておき…「で、まあ…それで、とにかくもうメンバー集めて
デビューって、すぐなっちゃったんで
まあ、あの…バンド自体のアンサンブル作るのに
どうしても3年くらいはかかるじゃないですか
だから、絶対、セカンドシングルで売れないと
その時間が稼げないじゃないですか
で、僕、デビュー曲で売れたくなかったんですよ
デビュー曲で売れると、大体あっという間に潰れて行くんで…
そういうの結構見てたんで…
上手い具合にセカンドシングルの【裏切りの街角】で
バチン!と80万(枚)近く売れたんで
『よし、これで時間稼げるな』っていうのはありましたね」と話されると
「久しぶりに聴いたら名曲ですねぇ」と石塚さん
甲斐さんは「ナンか独特なね…独特なオリエンタルなメロディで
ちょっと面白いですよね」と答えておられましたが
この「オリエンタルなメロディ」は
甲斐さんが幼い頃、当時のご実家で夜な夜な繰り広げられていた宴で(笑)
「ワイ歌から軍歌、戦前から戦後に至る歌謡曲まで様々」な歌が歌われ
「その時に歌われた全ては、僕の体に自然吸収され
血となり肉となっている」ものから発露されたそうです
ただ、この曲はかなりの難産でいらしたらしく
「幼い頃からのかすかな記憶にインスパイア」されて
【紫のタンゴ】のメロディをインターメロに拝借なさったり(笑)
アマチュア時代に長岡さんの部屋で作られた
【長崎ラプソディー】という曲のお気に入りのフレーズを
【裏切りの街角】のサビの部分に採り入れられたり…
でも、曲を作るということ…しかも、いわゆる「職業作家」としてではなく…は
ご自身の中に蓄えられているものから、自然と滲み出て来たり
あるいは、傷口を抉じ開けるようにして取り出したりして
文字通り、血肉を削りながら形にしなければならないんじゃないかと…?
甲斐さんがご出演になったBSNラジオの番組です♪
たぶん?BSNテレビを除けば
これで怒涛のキャンペーン番組は全て網羅できたんじゃないかと…?(笑)
もう1本のBSNの番組「ゆうなびラジオ」は生放送でしたが
この番組は「サロン・ド・かおり」という「憩いのバー」に見立てた演出らしく
人々の話し声やグラスが触れ合う音が流れる中
「じっくり語って頂きましょう♪」って感じ(笑)
ただ、この「ゆうわく伝説」というタイトルといい
【タブー】みたいなジングルといい(笑)
それに、石塚さんは甲斐さんのファンでいらっしゃるようで
「大好き過ぎて緊張してるんですけど…
甲斐よしひろさんです」と紹介なさる声といい
奥さんは、いつぞやの名古屋の某女性DJの方を連想したらしく
「ナンだかなあ…」と気乗りしない様子で聴き始めたんですが(苦笑)
「ゆうわく」は「夕方わくわく」の略だったし(笑)
媚びる調子も、おもねる素振りも感じ取れない
さっぱりした石塚さんの話し方に、一気に好感度アップ(笑)
「地方でこうやってお話するチャンス
あんまりないんじゃないですか?」との質問に
「そうですね、プロモーションとか
そういうのホントにほとんどやらないんで…」と甲斐さん
「今回はですね、4ヵ所ですかね
ナンかね、大阪の生番組で歌ったりとかしましたけどね(笑)」と話され
「さっき、新幹線降りようとしたら
『柏崎行きはナンとか』って言ってたんですよ
考えたら、新潟市内、長岡、上越ってこの3ヵ所
いっつも行ってたんですけど、柏崎もそういえば行ってましたよ
みんな、市内、長岡は行きますよね?上越まで行かないもんね(笑)
ナンか、僕らが行った頃はですよ
ずいぶん昔なんですけど、西部劇の街みたいですよ
雪が多いから、こう…床がちょっと上がってるんですよ
そいで、僕らが見つけたバーが、こういうスウィング・ドアになってた
ホントにスウィング・ドアになってるの…完全に西部劇じゃないですか(笑)
あースゴイなー!と思って…(笑)
それが気に入って行くようになったんですよ」
…と、かつてのツアーでは、ナゼか新潟は
必ず県内3ヵ所でライブが組まれていたことに触れられ(笑)
「気分はガンマン」「アレが噂の左きき(笑)」バーの話も飛び出したのに(笑)
石塚さんは、甲斐さんの声に聴き惚れていらしたのか?(笑)
「こうやってお話してても思うんですけど
甲斐さんの声量って、全く変わらないというか…」とおっしゃって
甲斐さんから「生の声量、聴いたことないでしょ?(笑)」とツッコまれ(笑)
「長くやってる方って、再結成とか…あるじゃないですか
(昔と)何かが違うな?…とかって…」と石塚さん
甲斐さんは「僕に何か言わせたがってますよね?(笑)
あの…声が出てない人とか、そういうことですよね?」と
結局、言わされておられました(笑)
「1974年に【バス通り】…甲斐バンドでデビューってことなんですけど…」と言われて
「僕、元々、ソロシンガーで
レコード会社との契約もソロでするはずだったんですけど
その時はもう、結構な感じで飽きてたんですよ(笑)
頭の中でバンドのサウンドがずっと鳴ってたんで…
元々、弾き語りスタイルじゃないんですけど…
アマチュア・フォーク・コンテストで優勝したんで
色んなレコード会社、来て貰って
その時にもう、バンドを組むって決めてたんで…
で、照和っていう、博多にライブハウスあるんですけど…」とおっしゃった途端
「ハイ!行ったことあります!」と石塚さん(笑)
甲斐さんに「ほぅー、なるほど…修学旅行かナンかで?」と訊ねられ
「違います、大人になってからですけど
まさか、甲斐さんにその話をすることになるなんて…
ホントに感動しましたから…あすこ行った時は…
だって『甲斐バンドもココからでしょ』って思ったら…」と
聖地巡礼をなさった時のコーフンを思い出されたご様子(笑)
まあ、甲斐さんはいつも通り、その手の話はスルーされ(笑)
「それで…そのね、僕入れて4人なんで、他3人必要な訳じゃないですか
で、優秀なヤツを3人、1人ずつ抜いて行ったら
ま、3つのバンドが残念ながら潰れて行った…(笑)
よくある、よくある、地方にある弱肉強食なライブシーンの話ですが…(笑)」
…と、皆さま、よくご存知の甲斐バンド結成秘話(笑)を披露され
更に「元々、そのリードギターの大森さんと
ベースの長岡は、僕より年上なんですけど
2人でこれ下宿、太陽荘って下宿にいたんですよ
全然、太陽らしからぬアパートなんですけど…(笑)
そこに、しょっちゅう遊びに行ってたんですよ
だから、基本的に『バンド組もう!バンド組もう!』っていう
雰囲気から始まってるんで…僕が言い出す前に…
って感じなんですよ」…という話も登場し
「オリジナル甲斐バンド」に思い入れの強い(笑)我が家の住人は
「そうそう!大森さんのことは『大森さん』なのに
長岡さんのことは『長岡』って言ってた!(笑)」やら
「じっくり曲を聴きたい時は大森さんの部屋へ行って
騒ぎたい気分の時は長岡さんの部屋に行ってたらしいよ(笑)」やら
「バス停のベンチを盗みに行った頃だよね(笑)」等々
もう、ウルサイ、ウルサイ…(苦笑)
余談ですが…昔の写真集に長岡さんが書かれた博多の地図が載っていて
発売当時は、その写真集を買えなかった奥さんが
ン十年経って、古本屋で見つけた時
その地図の中に、長岡さんの行きつけらしき?お店が書き込まれてるのを見て
思わず「ええーっ!?」と声を挙げてしまったらしいんだけど(苦笑)
それは、奥さんが中学の修学旅行以来、初めて博多へ旅行した際に
たまたま、通りがかってフラッと立ち寄ったお店と
同じお店だったからみたいです(笑)
それはさておき…「で、まあ…それで、とにかくもうメンバー集めて
デビューって、すぐなっちゃったんで
まあ、あの…バンド自体のアンサンブル作るのに
どうしても3年くらいはかかるじゃないですか
だから、絶対、セカンドシングルで売れないと
その時間が稼げないじゃないですか
で、僕、デビュー曲で売れたくなかったんですよ
デビュー曲で売れると、大体あっという間に潰れて行くんで…
そういうの結構見てたんで…
上手い具合にセカンドシングルの【裏切りの街角】で
バチン!と80万(枚)近く売れたんで
『よし、これで時間稼げるな』っていうのはありましたね」と話されると
「久しぶりに聴いたら名曲ですねぇ」と石塚さん
甲斐さんは「ナンか独特なね…独特なオリエンタルなメロディで
ちょっと面白いですよね」と答えておられましたが
この「オリエンタルなメロディ」は
甲斐さんが幼い頃、当時のご実家で夜な夜な繰り広げられていた宴で(笑)
「ワイ歌から軍歌、戦前から戦後に至る歌謡曲まで様々」な歌が歌われ
「その時に歌われた全ては、僕の体に自然吸収され
血となり肉となっている」ものから発露されたそうです
ただ、この曲はかなりの難産でいらしたらしく
「幼い頃からのかすかな記憶にインスパイア」されて
【紫のタンゴ】のメロディをインターメロに拝借なさったり(笑)
アマチュア時代に長岡さんの部屋で作られた
【長崎ラプソディー】という曲のお気に入りのフレーズを
【裏切りの街角】のサビの部分に採り入れられたり…
でも、曲を作るということ…しかも、いわゆる「職業作家」としてではなく…は
ご自身の中に蓄えられているものから、自然と滲み出て来たり
あるいは、傷口を抉じ開けるようにして取り出したりして
文字通り、血肉を削りながら形にしなければならないんじゃないかと…?