読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『AIvs.教科書が読めない子どもたち』

2018年05月07日 | 自然科学系
新井紀子『AIvs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018年)

2月に新井紀子『ロボットは東大に入れるか』を読んで、その斬新な問題意識に興味をいだいて、この最新の本を借りて読んだ。

AIがこれから人間から奪っていく仕事はどんなものなのか、そんな事態になっても生き延びることができるためには、人間に何が必要なのか、そういう問題提起をした本である。

この著者はAIの専門家なので、AIに何ができて、何ができないか、よく分かっているので、変な幻想や驚異を振りまくことはしない。

その肝は、AIがどんなに発展しても、AIには「言葉の意味を理解することはできない」から、AIから人間が仕事を奪われないためには、最低限、「言葉の意味を理解することができる」ようにしなければならないのに、現在の子どもたちは大部分が「言葉の意味を理解できていない」状態にあるという点である。

この本を読んで興味深かった点だけを羅列してみる。

1.AIを国家や企業がプロジェクトとして取り組んでいく姿勢の違いについて。現在、アメリカではグーグルを始めとした巨大企業が膨大な資金を投資してAIの開発に取り組んでいる。AIが人間にとって代わることはできないにしても、現在人間が担っている仕事の多くがAIでもできるようになれば、それを開発して特許をとった企業は世界経済を支配できるかもしれない。

もちろん日本もそんな見通しができないほど馬鹿だったわけではない。1982年頃に通産省が立ち上げた国家プロジェクトが「第五世代コンピュータ」だという。自動診断や機械翻訳の実現を目指して、500億円以上の予算が投下されたのに、失敗に終わり、その後はAIに関するプロジェクトは凍結されてしまったという。

私が興味深く読んだのは、著者の新井さんが、それから20年以上もたって東ロボくんのプロジェクトを開始したときに、この「第五世代」のプロジェクトがどのように総括されているか知りたいと思ったが、資料が一切残っていなかったという。つまり、日本の官僚というのは、国民の財産を湯水のように使いながら、決して総括をして、その後の検証の手がかりを残すということをしない、つまり失敗から学ぶということができないということを示していることだ。まさに第二次大戦の諸々の作戦がそうであり、第二次大戦そのものの敗北がそうだろう。

これに対して、アメリカの企業は日本の失敗に学んで、論理的な手法で自動翻訳などのAIを開発することに見切りをつけて、統計的手法に転換し、現在の成果を上げたという。なんだか500億もの金をアメリカのために捨ててやったようなものだ。

2.科学の限界に謙虚であること。
気象予報、温暖化予想、地震予測など、AIの急速の発展によって、ここ数年でさえも劇的に進化した分野がある。たしかに雨が降る予想やどの程度雨が降るのかという予想は、ここ数年で驚くほど進歩した。

だがしかし、自然現象は、複雑な諸要素の絡み合いの結果生じているのであって、地震が起きるというような理屈では分かっている自然現象でさえも、間違えることが当り前なのだという。

それは人間が自然界を征服できるなどと考えないほうがいいという、謙虚さへの教訓である。現に、コンピュータには意味を理解することができないという。人間の脳も電気信号で成り立っているというのに、コンピュータはそれには遥かに及ばない。

3.偏差値と読解力
私がこの本で一番興味深いと思ったのは、もう最後のあたりになるが、偏差値と読解力のことを書いた部分であった。AIに支配されないような人間を作るのに最も必要なのが読解力であるのに、その読解力ということで今の子どもたちは心もとない現状にあるという。

面白いのは、旧帝大に入れるような子どもたちの読解力は非常に高いということらしい。つまり読解力と偏差値には相関関係があるそうだ。有名私立中学の入試はまさに読解力があるかどうかを調べるというか、ふるい分けるための試験だという。

では読解力がどこで差がつくのか、というと、これがよく分からないらしい。読書の量も学習習慣もスマフォの使用時間も、無関係なのだという。つまり、こうすればこうなる式の読解力改善法はないのだということだ。

でも、埼玉県戸田市の例を上げて、先生たちが教科書にかかれていることを子どもたちに正しく理解してもらえるにはどうしたらいいかという意識からあれこれ試行錯誤していった結果、劇的に読解力が高まったということを報告しているので、地道な努力が必要だということは言えるのだろう。

著者は、深読み…同じ本を何度も読み込む…のがいいのではないかと書いている。

最後に、コンピュータを動かすのは人間だ。人間がプログラミングしなければ、コンピュータはただの箱にすぎない。そのプログラミングができる人材が払底しているという。そこで企業が公教育にプログラミングを入れさせた。小学校からプログラミング教育をするという。やめてほしい。

私はこの手のことは好きなので、プログラミングに何度も手を出した。そのたびに挫折した。私には合わないのだ。かたや小学生がプログラミングをするという話が時々ある。つまりプログラミングというのは相性があるとおもう。

その点で言葉とはまったく違う。言葉は人間が生きていくために絶対に必要なものだ。その言葉を読解力をつけて深めていくことは豊かな人生を送るためにも必要だ。でもプログラミングはそうではない。できる人だけがやればいい。そんなものを小学生に押し付けないでほしい。


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