日伊文化交流会

サークル「日伊文化交流会」は板橋区で生まれ、元東都生協登録サークルとしてイタリア好きの人たちが集まり楽しく活動しています

イタリアのドキュメンタリー映画「ボルサリーノ・シティ」と監督のトークを聞き帽子を見る目ががらりと変わりました(2016.5.9)@イタリア文化会館

2017年06月06日 | イタリア映画・映画

イタリアのドキュメンタリー映画「ボルサリーノ・シティ」と監督のトークを聞き帽子を見る目ががらりと変わりました(2016.5.9)@イタリア文化会館


ひさびさにイタリア文化会館に行き 「ボルサリーノ・シティ」というドキュメンタリー映画を創ったエンリカ・ヴィオラ監督のトークを聞いてから 映画を見てきました

実は今まで帽子にはあまり気を留めてこなかったのですが この映画を見て帽子を見る目ががらりと変わりました! 会場にはステキな帽子をかぶった方が何人かみえていました

思えば 帽子がそれを被る人のステイタスを表す時代があったのですね... 中でも映画「カサブランカ」で ハンフリー・ボガートが 昔の恋人役のイングリッド・バーグマンと別れるシーンですが(何度見たことか...) あれは帽子なしではまったく違うシーンになっていたのですね...うっとり...


北イタリアのアレクサンドリアの街をまるごと養う程の大きな有名ブランド帽子メーカー「ボルサリーノ」社(Borsalino Giuseppe e Fratello S.p.A.)  その創始者Giuseppe Borsalinoは「100年続く企業をこれから作る」と言い それは現実のものとなりました

工場では街のほとんどの人たちが働き その鐘の音は工場ばかりか街の人々の生活をも司り また 戦争で焼けた工場を街の人々と総出で片づけてゆくシーン そして 映画とともにボルサリーノの帽子は世界に広まり 日本までも...

そして世の中は変わり だんだんと長髪が流行り 帽子がすたれてゆき 売上も落ちてゆき...シンボルの煙突が壊されるシーンは哀しかった 1857年から3代続いたボルサリーノの150年の歴史を壊してはいけないと感じました 創業150年を経た今でも 今世紀初頭の機械と木製型を使った職人の手作りなのですね



まずは エンリカ・ヴィオラ監督のトークで始まりました 監督も白い帽子を被っていらっしゃいます:

1905年にミラノ・マルペンサ空港で ある米国人ツーリストが機内に帽子を忘れ 「私のボルサリーノ!!」と何度も叫んだエピソード つまり「ボルサリーノ」は メイド・イン・イタリーの「帽子」の代名詞なのだ 

3代で125年間に渡り経営を続けてきた「ボルサリーノ」の波乱万丈の歴史をドキュメンタリー映画にするにあたり アレッサンドリア市にある膨大な資料の提供等の協力をいただき 他にも各方面からの協力を得て作られたことをご紹介いただきました
帽子を通じて文明を広める使命感」を持ち 「ボルサリーノという神話を作ってきた」彼らの歴史がフィルムに収められました

1914年オックスフォード英語辞典に「Borsalino」という単語が載ったとのこと 
1957年の100周年式典を経て やがて帽子の時代が終わり... しかし今もブランド力を持っており その歴史を 特に「アレッサンドリアの街ごと食い扶持を与えていた」という熟練工たち(operai)のインタビューの数々や また経営陣や海外スタッフの そしてボルサリーノを愛してやまない映画俳優たちのインタビュー等を含めて作られた 見事なドキュメンタリー映画 愛を感じました


     *      *      *

映画の紹介:

イタリアの有名帽子ブランド、ボルサリーノの歴史を描いたドキュメンタリー。

1857年ジュゼッペ・ボルサリーノがピエモンテ州アレッサンドリアに工房を設立し創業して以来、三代125年にわたりボルサリーノ家によって経営が受け継がれ、その後、経営形態は変わったものの、今なお時代にあったスタイルを創造し、上質な帽子を作り続けています。

ボルサリーノの帽子は、優れた製法、販売戦略によって、また、ハリウッドの黄金時代の作品でよく使われたことによっても人気を得て、世界中に広まっていきました。

本作では、過去の映像やインタビューを交え、小さな工房から始まったボルサリーノが世界に誇るブランドとなっていく様子や、社会の変化にともなうボルサリーノの帽子作りの変遷などが語られます。

上映に先立ち、監督のエンリカ・ヴィオラ氏による解説があります(日伊逐次通訳付)。

      *      *      *

まず現れたのがロバート・レッドフォード!! 彼のボルサリーノの帽子への熱い思いを方ってくれます 
アレッサンドリアの街にある山の斜面には「Hollywood」という看板がかけられているのですね

創始者のジュゼッペ・ボルサリーノ/Giuseppe Borsalino/1834-1900)は勉強が嫌いで 12才で帽子工房で働き始め 17才でフランスに修行に行くが 過渡期にあったフランスの帽子業界で多くを学び 1855年 21才でイタリアに帰ってきた 

その時シルクのハンカチを実家に忘れてしまうが 親がそれを言うと「ハンカチはいずれ孫にでもあげてくれ 僕はこれから100年後にも存在する企業を創るから」と
1857年4月 ラッツァーロに工房をつくる シルクハット(cilindro)は当時 地位を証明する身分証明書のようなものだった

イギリスから機械を入れ 1888年に工場では500人が働き 一日2500個作っていた 
リボンをつける仕事なども品質を保証するため外注はせず それは女性工員にとっては貴族のような仕事だった 
また創業者は60才でも自ら メルボルンまで上質なうさぎのファーのフェルト (feltro di pelo di coniglio)を買い付けにゆく
1900年パリ万博でグランプリを受賞し 世界中に広まる 

1900年に創業者は病死 実は帽子が嫌いだったという 思考の邪魔になるからと 
そんな彼の名前が帽子につけられている 

長男テレジオ/Teresio Borsalino(1867-1939)が会社を継ぐ

1900年当時は 帽子職人たち(i cappellai)は朝5時半から一日20時間も働いていたという (この時代は他の映画を見ても そういう労働時間だったみたいです)
1908年日本に初上陸 この当時の貴重な白黒フィルム 皆さん着物でしたね~

いとこのジョヴァンニが内紛により 他に工場を作り対決姿勢となる 
キートンの蒸気船での帽子を買う有名なシーン チャップリンの山高帽 シルエットだけで誰だかわかる
1869年のフィレンツェで 上院議員が深夜襲われ帽子に一撃をくらい へこんだことをきっかけに フェドーラともいう中折れ帽が作られ普及する かぶり方も大切で 生地もフェルトでやわらかくなる 

企業城下町となったボルサリーノ社は 福祉制度にも力を入れる つまりはアレッサンドリアの街のインフラに協力* なんといっても街の多くの人たちが代々ここで働き 日に何度も鳴る工場のサイレンと共に街の人たちも生活していたのだから

「利益は自分や家族だけでなく 工員たち つまり町の人々にも還す義務があると考えていた」とのインタビュー  (ただのちに 守衛を10人も雇うなどは経営悪化を招くと指摘されたりもするが...)

* La dinastia imprenditoriale dei Borsalino contribuì inoltre alla realizzazione di importanti opere per la città di Alessandria, quali l'acquedotto, la rete fognaria, l'ospedale civile, il sanatorio e la casa di riposo.(Wikipedia)

ボルサリーノ社の後継者はアレッサンドリアの街のために水道橋、下水道網、市民病院、サナトリウムや老人ホーム等、重要な施設を作ることに貢献した 


アル・カポネの映画でも帽子が主役だった マフィアだけでなく アメリカには当時イタリア人の仕立て屋もいた ギャング映画の人気とともに帽子も売れてゆく 広告ポスターは相変わらず経営者の内紛のため 有能なデザイナーが両社のポスターを手掛ける

2万の人口のアレッサンドリアの街で3千人が働き 年間200万の帽子を作る 
 
ゲイリー・クーパー ハンフリー・ボガート ジャン・ギャバンなど 
帽子は40年代当時シンボルであり 「カサブランカ」のラストシーンは あの帽子なくしては全く別のシーンになっていたであろう...




さらに帽子は映画の群衆(モブ)シーンでも多用された 個性を隠しドラマチックになるのだ 顔を隠す鎧のように

テレジオが亡くなったあと 甥の息子ニーノ・ウズエッリTeresio (Nino) Usuelliが継ぐが 彼は第二次世界大戦の大変な時代を経験する 
1944年4月に工場にとうとう爆弾が落ちる 爆弾の他にも 市場が閉ざされ輸出ができないことが痛手だった 
爆弾のあと皆で片づけ その火事で工場が燃えてしまったシーンはあまりのひどさに胸が痛んだ...みんな 焼けてしまった... 当時の貴重な記録フィルム

数年後に あの時爆撃したという米兵が謝罪にきたというエピソード 実家が帽子屋だったという

1945年4月 サイレンは空襲から工場のサイレンへと戻り 復興が始まった

1957年100周年を祝うボルサリーノ社 全員が空から記念写真で写る 街の人々の笑顔 創業者のシルクのハンカチの予言が現実となった瞬間だった 

時代はギャング映画から コメディやウエスタン映画へと移る 
自動車が街に現れ ジーンズが 自由のシンボルの長髪が流行り出し 人々はあまり帽子を被らなくなってゆく...

1970年に 「ボルサリーノ」という映画が作られる 当初は違うタイトルだったが事情により 主演のアランドロンの発案で このタイトルに変えたというエピソード

1957年に年90~95万の帽子が作られ 従業員は900~千人となる 1968年までにそれが半分になる 年7%の減少 男たちは美しい女性の前で帽子を脱ぐという特権を失った

1979年にニーノが引退し 甥のウッドリオは工場を街の郊外に移す 買収され 煙突は街のシンボルだから壊さないでほしいとの訴えもかなわず 壊されるシーンは見ていて哀しくなった 
欧米の他の国ではみな帽子の会社は廃業していった

さいごにまたロバート・レッドフォードが語る 昔は飛行機に乗る時は皆きちんとした服装で帽子を被っていた 今は軽装で乗る そして彼はありとあらゆるところで自分の「ボルサリーノ」を探したが見つからず とうとうボルサリーノ本社に家族と出向き ようやく自分のボルサリーノと出会ったというエピソード...

その日は朝から女性工員たちが浮き立っていたという ロバート・レッドフォードがここに帽子を買いにくるのだと...

ボルサリーノ・シティ」は こちら

ボルサリーノのHPは こちら


開催のお知らせは こちら

素晴らしい上映会を開催してくださいましたイタリア文化会館様に 心よりお礼申し上げます



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