心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

次の著書のタイトル

2017-03-29 17:33:04 | 備忘録

 何度も備忘録として次の著書のタイトルを書いてきたが、そろそろ最終案を打ち出そうと思う。

それは『意識・生命・時間』というものである。

このように三つの語を中黒(・)で結んだタイトルは好き嫌いが分かれる、と思う。

私自身もこれまで『時間・空間・身体』 (1999) と『心・生命・自然』 (2009) というこの種のタイトルの本を二冊上梓している。

なんか安直なタイトルのつけ方のような気もするが、意外とこれが内容にジャストフィットしているのだ。

まだ決定したわけではないが、最も書きたくて、かつ最も書きやすそうなのをタイトル化すると『意識・生命・時間』となるのだ。

実は2007年の『自我と生命』の最終章のタイトルが「生命・時空・意識」となっている。

これを大幅に改変し内容を増幅すれば件の本になる。

基本的に意識哲学と生命哲学と時間哲学の三位一体構造を体系構築的に論じるつもりである。

なお、空間の問題も論じることになると思うが、今回はわき役に徹してもらうので、時間のほうを前面に押し出した。

また、件のタイトルを副にして主タイトルを「哲学の最後の輝き」ないし「哲学の究極」とすることもできる。

その他「存在の深淵」とか「存在の深み」とかでもよい。

すると件の本のタイトルは『哲学の最後の輝き - 意識・生命・時間 - 』となる。

こっちのほうがいいかも。

Life is short. Art is long.

 


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意識と生命

2017-03-29 00:24:43 | 脳と心

アメリカの心の哲学の第一人者ジョーン・サールは生物学的自然主義の立場から、意識が呼吸や消化や光合成と同様の生物学的現象であると主張している。

つまり、意識はデカルトが想定したような非物質的実体としての魂の働きではなく、脳の生理的機能だというわけである。

しかし、サールは唯物論をけっして認めないので、意識を脳の神経生理学的過程や計算論的過程に還元してしまうことはない。

なぜなら、意識には「私」ないし自我という主体があり、その一人称的な現象特性はけっして三人称的な生理学的過程に還元できないからである。

それでは、そうした還元不能な意識は脳の神経生理学的過程から二元論的に分離されるべきなのであろうか。

けっしてそうではない!!

たしかに、脳の物質的組成や生理的過程や計算論的システムは外部から客観的に観察され、データ化しうるものだが、自我に代表される意識の主観的特性は内側から当人のみが確認しうるものである。

しかし、だからといって脳と意識が二元論的に分離されることはない。

意識と脳の間には「創発」の関係があるのだ。

脳の要素的研究では知りえない「脳の自己組織化的全体特性」があり、この全体特性は神経科学と認知科学の守備範囲を超えているのである。

しかし、この「脳の自己組織化的全体特性」はけっして超自然的なものではないし、科学の限界を示唆するものでもない。

それは、還元主義的科学の分析的手法によっては捉えられないが、システム論的科学の創発概念によって把握可能な生命現象なのである。

脳は脳単独で機能するものではなく、身体に有機統合され、環境と交互往還的に(注)情報処理活動を行う、人間の生きた情報処理システムなのである。

それゆえ、脳と意識の関係の考察は常に身体と世界という要素を顧慮してなされなければならない。

要するに、意識とは脳をもった人間が世界の中で生きていくことの中で実現する「生命と情報の自己組織化活動」の自己集約化として主体的生命現象なのである。

そして、その主体としての「私」はけっして神秘的なものではなく、他者とのコミュニケーションから生まれる社会的現象である。

それゆえ、それは唯一無比のものではなく、他者との社会生活を円滑にするための「道具」なのである。

他者が道具なのではなく自分が道具なのである。

 

(注) この「交互往還的」ということが内部と外部、主観と客観の二元対立の克服を示唆する。ハイデガーの世界内存在の概念やジェームズの純粋経験の概念はその見本である。


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