心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

雪女の美 

2013-01-11 16:07:58 | 美人

私は誰でしょう ?

雪女に見える ?

写真の右下に私の名前が書いてある・・・・

吉永小百合・・・・


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あれっ、上戸彩がきれいになった・・・・と思ったらキム・テヒでした

2013-01-11 12:41:54 | 美人

あれっ、上戸彩が、かわいいから綺麗に成長した!!

と思ったら、韓国の人気女優キム・テヒでした。

彼女は1980年生まれの32歳で上戸より5歳上。

しかし美貌はテヒの方が上だろ。

上戸もあと5年でこのように成長するだろうか。


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『存在と時間』の研究と新『存在と時間』を書くことの違い

2013-01-11 10:25:34 | 哲学

ハイデガーの主著『存在と時間』は20世紀最高の哲学書と言われ、多くの寄生虫を養っている。

寄生虫とはハイデガー研究者、はいでっげりあん、たちである。

彼らは一生『存在と時間』を中心としたハイデガーの哲学書を読み漁り、二次文献も読み漁り、その思想解釈に身を捧げる。

これはハイデガーないし文献研究的哲学に魂を売り渡したことに他ならない。

真の哲学的営みはそんなものではない。

真の哲学とは、自分で自分の理論体系を合理的で学問的な方法で構築し、自分の言葉で哲学書を仕上げることである。

そのためには、ハイデガーの精読は卒業して、自ら『存在と時間』に匹敵するように哲学書を書こうとしなければならない。

そして、実際に書かなければならない。

こういうことを言うと、基地外扱いされるが・・・・

実際に書こうとしている人はいるし、ハイデガー自身が、カントやフッサールやヒュームと同様に、そのようなことをした真の哲学者だと思うのだがorz


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現象学はだめだ

2013-01-11 09:41:21 | 哲学

フッサールが創始した現象学(Phaenomenologie)は日本で未だ流行っているが、哲学としては2流である。

そもそも超越論的主観性の論理的構成能力によって意識と世界の本質を把握しようとする姿勢に問題がある。

それは意識内在主義の主観的構成主義、つまり主観的観念論にすぎないのである。

自我と意識の本質は脳の生理学的機能を参照することなしに理解することはできない。

こう言うと、現象学者は反感を示す。

意識はその現象的本質を把握することなしに本来的意味を把握できないかららしい。

しかし、脳の神経生理学的プロセスをいくら調べても、我々が直接体験する意識現象を見出すことができない。

だから、脳の働きは無視(現象学の用語ではエポケー)してもよい、というわけである。

この態度は古くからある「現象主義」の亜系にすぎない。

現象主義は、現象と実在の区別を無視して、存在を現象に還元しようとする。

そして、意識に直接現れる体験内容ないし心的現象を、先験的=超越論的主観性によって明証性の目をもって確然と把握しさえすれば、実在と存在の意味は把握でき、そこから真の知への道が開かれる、と考えるのである。

これは「太陽は見かけどおり直径30㎝だ」と言い張る態度と何ら変わりない。

現象学者は、太陽に関しては態度を留保しても、意識と自我の本質に関しては、現象学の超越論的方法論が正しい、と言い張るであろう。

しかし、それらに関してもやはり質料因、つまり脳の生理学的情報処理過程を無視するわけにはいかない。

ただし、脳科学と連携した心の哲学は、意識の質料因、つまりその神経的基盤だけではなく、脳と環境の相互作用の舞台で演じられる「生命と情報の自己組織性」を顧慮する。

これはすでに医学部出身で脳に詳しかった哲学者ジェームズが指摘していたことである。

彼は、私のようなマニアックな言い回しはしなかったが、「脳と環境との共進化」と「意識と物的環境の不可分性」を意識研究の基盤に据えていた。

彼が自由意志の問題に直面して一時的に形而上学に逃避しようとした姿勢は、「生命と情報の自己組織性」を顧慮した「意識と脳の環境内存在論的関係把握」によって正道に戻される。

とにかく、現象学の主張は一見正しいように思われるが、重大な欠点をもっているのである。

現象学者は、自分たちが物質や物理に弱いことは認めるが、意識の本質把握に関しては自信たっぷりで、他の批判を受け入れない傾向がある。

しかし、以上の理由から、意識に関しても現象学の方法は不適切であることが分かる。

あるいは思ったほど有効性がない。

これを強く主張していたのは、ヘーゲル研究者で応用倫理学の第一人者・加藤尚武である。

またデカルト研究者で科学哲学も専攻する小林道夫もフッサールの現象学を「肥大した主観主義」として無効宣言した。

彼らの言を俟たなくても、現象学は太陽の直径が地球の109倍あるからダメなんだ!!

精神医学の中にも現象学の影響を受けた精神病理学の一派が存在するが、これも知的なマスターベーションに陥る傾向が強く、だめだ!!

彼らは生物学的精神医学や脳科学をすぐに還元主義だとか唯物論だと言って批判したがるが、「意識と脳の環境内存在的関係把握」ができており、かつシステム論的手法を取り入れていれば、別に問題はないのである。

ヴァレラは、主観的意識と脳の二元論的分離に基づいて「神経現象学」というものを提唱したが、それでは意識と脳は永遠に平行線をたどり、けっして交わることはない。

システム論を熟成させた彼にしては、これは大変な落ち度であった。

彼は創発と自己組織性の概念を熟知していたにもかかわらず、フッサールの肥大した主観主義に翻弄されて、二元論に逆戻りしてしまったのである。

 

 

 


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