ねこ吉のよしなしごと

どうでもいい事ばかり書いていますが・・・。すっかり備忘録になってます。

お盆ですね。

2024-08-14 19:21:59 | 日常のこと
 
 
 
今日も暑い日だった。
 
行こう行こうと思いながら、毎日の暑さで日延べしていることを今日こそ決行。ちょっと大層だけど。
 
毎年祇園祭の宵山に行っていたから、その時に前年の粽は納めていた。
 
今年は、去年より暑い日が続き、とうとう祇園祭の曳き初めに行くことを諦めた。ほぼ毎年行っていたのにね。
 
だから、去年の鉾を神社に納めに行くことにした。

 
午前中にバスに乗って住吉神社まで来たけど、神社までの道の暑いこと暑いこと。
 
手水舎の龍の口から水は出ていなかったけど、ねこ吉が近づくと水が出だしたのでセンサーが働いているのかな。
 
神社には誰もいなかった。暑いものね。
 
又、バスに乗ってさっさと帰ってきた。
 
 


さて、13日に迎え火で盆の入り。
ねこ吉は、夜中の2時頃目が覚めて眠れなくなってしまった。
 
約50年前の母の新盆のことを思い出した。
 
1974年3月に母を亡くして、ねこ吉は23歳、悶々として養父と二人尼崎の家に住んでいた。
ねこ吉はどんなお盆の用意をしたか全く覚えていない。
 
キュウリの馬もナスの牛も作らなかったなぁ。
 
お膳は作ったと思う。
 
母が亡くなる2,3年前に猫の額ほどの庭を潰して、ダイワハウスのプレハブ3畳ほどの部屋を作ってもらっていた。
ベットと本箱と隣の西井さんのおばさんがくれた頑丈なタンスだけで部屋は一杯。
超狭い部屋だったけど鍵付きだった。
 
母が亡くなって以来、ねこ吉はほとんどそりの合わない養父と口を利かなかった。
簡単な夕飯を作って食べたら、狭い部屋に鍵をかけて籠っていた。
 
お盆の日の夜中、カタカタと箪笥の金具が鳴った。
 
ねこ吉は、「お母さんでしょ!」と声に出して飛び起きた。
 
絶対母が帰ってきたと思った。
 
そのタンスには、母が内職をして身を削って作ってくれた着物が入っていた。
 
ねこ吉は結婚する当ても無いのに、次から次と着物を買って仕立ててもらっていた。
 
自分の着物も、洗い張りをしてねこ吉サイズに縫い直してもらい、「これも箪笥のかさ上げにしようね。」と言っていた。
 
祖母が色々うるさいので、ねこ吉の部屋のタンスの中に隠していた。
 
今思えば自分の死期を悟って準備していたんだと思う。
 
ねこ吉は結婚に際して、山ほど着物を持ってきた。
時代も変わって、着物など着る事もなく箪笥の肥やしだった。
 
寝室のリフォームで箪笥を捨てたから、着物もたくさん捨てた。躾がついたままの物もあった。
お母さん、本当にごめんなさい。
 
案の定、眠れなくなってしまい睡眠導入剤を追加して飲み、大寝坊した。
 
お母さん、苦笑してるだろうね。
 
 
 
 
 

8月15日

2022-08-15 22:11:05 | 日常のこと


夜中の2時に目が覚めた。
睡眠導入剤を飲んで寝たのに、中途半端な時間に目が覚めて困ってしまった。

次に目が覚めたのは4時。

困るわ。追加の薬を飲むわけにもいかないし・・・。

布団の中でストレッチをして、4時半には起きた。

早起きをしたときは、0655を見る。
月曜日は、「たなくじ」の日。

川柳・俳句を一句ひねると吉」なんて、ねこ吉の何処をひねっても何も出てこないわ。



終わりのこどもようおみくじは、「むぎ茶大吉」だって!むぎ茶なら何杯でも飲めるよ。

酷暑に日々が続いてる。とりあえず、水分不足にならないように気をつけます。



(スーパーの花屋の前にいた新しい子。置物だけど可愛い顔してる。)

今日は、終戦記念日です。

戦後生まれのねこ吉は、戦争中のことは、ドラマや映画を見て知っている程度だけど、ねこ吉の親や叔父、叔母は、戦争の中を生き抜いてきた。

今思えば、皆にもっと戦前戦後の話を聞いておけばよかった。

父は徴兵されていた。(何処にいたのか知らない。)
母は、尼崎の大空襲で焼け出され、たどり着いた長屋にいた親切な人に、「ここは、大家さんが疎開していないから住んでおきなさい。」と言われ、その人の隣の空き家に住んでいたそうだ。

戦後その家に、父や叔父たちが復員してして大勢で住んでいたらしい。
叔父たちは、それぞれ仕事や住まいを見つけて出て行った。

父と母、祖母とが残り、ねこ吉が生まれ、その家で育った。

「親切な人」は、隣の西井さんという一人暮らしのおばさんだった。
自分より若い母が先に亡くなり、「アンタのお母さんを頼りにしてたのに。」と泣いていた。


昨年の8月15日、コロナは感染爆発していたけど、ねこ吉は「芙蓉蟹の思い出」をブログに書いている。
コロナ下とはいえ、のん気なもんだった。

一年の間に、ロシアとウクライナが戦争して、一向に解決しない。
ロシア軍に建物を破壊され、たくさんのウクライナの人達は亡くなり怪我をしている。親を亡くした子供たちも一杯。

太平洋戦争の時の日本を見ているようだ。

終戦から77年が経った。日本の周りもキナ臭い。
「戦争を知らない子供たち」だったねこ吉達は、「戦争を知らないジジイとババア」になった。

このまま、戦争を知らないまま死んでいきたい。
絶対に戦前にしないでね!

戦没者追悼式のニュースと一緒に、東北地方や、静岡の考えられない大雨のニュースが流れる。

酷暑の中、浸水した後の泥の撤去作業をする人たち。

国葬に使うお金を、各地の復興に回して欲しいと思うねこ吉は、間違っていますか?







夏のしつらえに・・・。

2018-04-22 20:44:36 | 日常のこと
(近所のつつじが満開です。

昨日、今日と温度がどんどん上がった。

家のホットカーペットはフローリング調だから、ビニール素材で出来ている。
暖かくなって、ホットカーペットが必要のない季節になっても、ビニール素材なので電源を入れていないと足が冷たい。

今日はホットカーペットを外そう。
巻いて、ひもで縛って冬まで立てかけておく。何ともかさ高く、場所ふさぎなカーペットである。

例年なら、カーペットだけ外して、ソファーの位置は5月か6月頃夏仕様にする。
2009年は6月19日、2015年は6月13日に夏仕様にしたブログを書いている。

今年は、ついでにソファーの位置も変えてしまった。

我が家の「夏のしつらえ」とは、ソファーが掃き出し窓の前から、リビング中央に移動するだけであるが、行き届かない掃除のせいで、いつもより念入りに掃除機をかけたり、重たいソファーを持ち上げたり、ねこ吉には面倒、かつ大変な仕事なんである。

ほぼ毎年、一人で移動する。たぬ吉に頼めば、やれ、〇〇を持ってこい、やれ、そこの掃除が足らん、など命令ばかりされるのが嫌なので、絶対一人でやる。

しかし、今日は腰が痛かった。いつまで一人で出来るやら・・・。
それどころか、その内共倒れという事態にもなりかねない。

夏のしつらえ・・・。美しい言葉である。
ネット検索したら、「京町家」のページが出てくる。

写真を見ると、「よし障子」「簾」「網代」「籐莚」何とも涼しそうな美しい部屋。

あ、これは、西井のおばちゃんの家と同じや。

ねこ吉は、尼崎の路地奥の長屋で育った。

隣には、「西井のおばちゃん」と呼んでいた一人暮らしの人が住んでいた。
母と仲良しで、お互い助け合って、いや、助けてもらうことの方が多かったような・・・。

西井さんは、自分に厳しく、世話好きで綺麗好きな人だった。

同じ間取りの長屋に住みながら、西井さんの家は、京町家みたいだった。

まさに、「夏のしつらえ」というにふさわしい家だった。

ほんとに、ねこ吉が育った家とは大違いだった。

長火鉢もあった。

家にお邪魔したら、その前でお茶を入れてもらってお菓子をご馳走になった。


「夏のしつらえ」という言葉が、「西井のおばちゃん」の思い出を連れてきた。
半世紀以上昔の話である。


夜になれば、足元がスース―する。早くに片づけすぎたわ。

追記

もう一つ思い出したこと・・・。

まだ、ねこ吉が6,7歳だった頃、西井のおばちゃんの家の庭に、「白蛇が出た!」というので、近所の人と一緒に見に行った。

白い蛇を見たような、見なかったような・・・。
ボンヤリした子だったねこ吉は、「何処にいるの?」と聞きもせず・・・。


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「残念さん」

2017-10-12 22:23:52 | 思い出
昨日は、大物(だいもつ)にある「残念さん」に行ってきた。
大物は、阪神尼崎から各駅停車で一駅大阪寄り。

9月9日、尼崎史料館に行った日に、調べ物をしていたら残念さんの事が載っていた。


ねこ吉は、高校受験の時母に連れられて願掛けに来たことがある。
どうやって行ったかは全く覚えていないけど、寒い曇った日だったと思う。
懐かしくて、もう一度行ってみようと思った。

「残念さん」とは、幕末の蛤御門の変で敗れた長州兵、山本文之助のことで、捕えられ牢内で、「残念じゃ、残念じゃ。」と言いながら自害したそうだ。
哀れに思った里人が墓を建て、「残念さん」と言われ、お墓にお参りすれば一つだけ願いを叶えてくれると言われている。



大物で電車を降り、プリントしてきた地図を頼りに北上。
大物公園の近くらしい。

ユニチカ記念館に行った時も感じた事だけど、大物は古い町。
道がマス目になってない。
三叉路とか、五叉路まである。ねこ吉泣かせの町である。

見つかった!墓地の入り口に看板。
周りは二階建て住居に囲まれている。奥の方はマンションが建っている。
ひっそり、ひっそりぃ~。

ねこ吉一人。

残念さんに向かって祈る。

願い事、一つなんて!一杯あるんです。

しっかりお願いして、電車で尼崎に戻る。
もう1つの昨日の予定、尼崎史料館で住宅地図をコピーしてもらう事。

先日来た時に、自分の住んでいた地域の住宅地図を閲覧させてくれ、必要ならコピーさせてくれるって聞いた。
昭和32年以降、平成18年迄のものに限るらしいけど・・・。

今も尼崎に行けば、住んでいた家の近くには行くが、知っている人は茶道の先生の家族くらいしかいない。
当然、ねこ吉の住んでいた家もないし、隣も空き地になっている。

住宅地図は、昭和34年からしかなかった。ねこ吉は8歳かぁ・・・。
昭和38年、46年、51年、63年、平成5年、6年、7年のものをコピーさせてもらった。

住宅地図の名前を見れば、近所の人の顔が浮かんでくる。

家の隣に住んでいた西井さんの事を思い出した。母と仲のいい一人暮らしのお婆さんだった。
髪をアップに結い上げて、着物の衿に日本手拭いをかけ、きりっとした綺麗好きの人だった。

父は名古屋に単身赴任、母が夏休み中に手術入院したときは、ねこ吉は小学校2年生。
夏休み中は親戚に預けられてたけど、2学期が始まると家に帰って、西井さんにご飯を作ってもらって学校に通った。
でも、寝るのは家でたった一人。怖かった。

母が亡くなったとき、
「私が死ぬときは、アンタのお母さんにお世話になろうと思ってたのに、私より先に死にはって・・・。」と泣かれた。

本当に西井さんにはお世話になった。

昭和63年の住宅地図には、西井さんの名前は無かった。
ねこ吉が、千葉にいる間に亡くなられたのだろうな・・・。

昔の事をいろいろ思い出してしまって、寝られなくなってしまい時計を見れば4時。

懐かしい思い出は、辛かった思い出も連れてくる。

もう、昔を掘り返すのは止めよう。
コピーした住宅地図は、引き出し深くしまい込んだ。





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