(1)袴田事件は検察が再審控訴を断念して「無罪」が完全確定した。事件逮捕から58年の無罪判断の袴田事件から学ぶべきことは、①無実、無罪の人に死刑を判決してはならないこと、現在は証拠第一主義とはいわれているがそれでも「自白」は有力証拠として尊重されて、誤審につながる。
②最高刑死刑判断では「自白」を「完全除外」(法改正)し、「実体証拠」に厳格に限定し、それ以外のものは無期懲役刑を上限とする。
(2)最低でもこれだけのことを「守る」ことが司法の責任義務だ。死刑廃止論は世界的な流れ、傾向であり、日本は死刑制度を維持する数少ない国のひとつで社会思想、国民(感情)性(被害弱者擁護)、文化、風土から根差した死刑制度維持思想もある中で、せめて無実、無罪の人を死刑にしない、死刑判断には「自白」を完全除外し、実体証拠に厳格に限定することは、現在の死刑廃止論と被害弱者擁護の国民感情論との「間」を取り持つ、埋めるものと考える。
(3)袴田事件でも検事総長、かっての検察関係者から今回の検察提出のあらたな証拠を再審無罪判決で「ねつ造」と判断されたことに裁判で何ら説明証明がなく「大きな疑念」が示された。
再審請求裁判には確固たるあたらしい有力証拠が求められて、事件逮捕から50年以上も経過してなぜ今そんなあたらしい有力証拠が出てくるのか、それならそんな有力な証拠は当然早くみつけて提出すべき必要があったわけだから、裁判で「ねつ造」と判断されても致し方ない不思議な「有力証拠」だ。
(4)検察側はここでも「判断」の間違いをしたことは、時間の経過の大きさから明白だ。日本の裁判は時間がかかりすぎるとの批判、指摘はかねてからあり、それは慎重で、入念、真実を極める奥深さの意思、思想、責任のあらわれともいえて、しかし「時間」が過ぎれば長く経過すればそれだけ記憶、脳裏、能力から消えるものも増えて、判断があいまいになって不正確になり間違いも多くなるのが避けられないのは、自然の原理(a principle of nature)だ。
(5)そもそも裁判とは人間が人間を裁く不条理(unreasonableness)の世界であって、本来はあってはならないもので、冒頭に戻るなら無実、無罪の人を死刑にしない、死刑判断には「自白」を完全除外し実体証拠に厳格に限定することが「自然の原理」に近づくことだ。