2月11日の朝日新聞『天声人語』でも取上げられましたが、拙著『チベット語になった坊っちゃん』に登場していた生徒達と一緒に、関西「汽船」のフェリーで四国の松山を訪れます。3月10日の日曜日に愛媛大学の大教室にて、本に書いた通りの翻訳を実演します。講演会とシンポジウムもあります。午後1時からですからなので、お近く?の方は覗いて見て下さい。参加費は無料とのことです。イベントの様子は、ブログで紹介する予定であります。さて、どうなることやら……。楽しみなような怖いような……。でも、精一杯頑張ってみようとは思っています。
■落語の話に戻ります。時代が変わったと言ってしまえばそれまでですが、どんどん陰湿化しているイジメ問題やら簡単に殺人事件を起こす困った若者には、落語が切り取って示してくれる人間の滑稽さや悲しさを味わう体験が必要なのでしょうか?落語には、誤解・勘違い・喧嘩・和解のプロセスが丁寧に描かれている作品も多いですし、暴力場面も結構多いのに、凶悪犯罪はほとんど出て来ません。大事件に発展する前に上質な「笑い」に昇華してしまう言葉の技術が織り込まれていると言えそうです。
……『芝浜』を終えて幕が下りた後、しばらくぼおっとして、その時に決めたんです」
テレビでも「その瞬間」だけが、あちこちの報道番組で放送されていたようですが、最後の演題となった『芝浜』をきっちりと放送した局は無かったようです。最後のサゲだけを切り取って報道したところも有ったようですが、随分と残酷な編集だと思いました。40分を超える長い人情噺ですから、今のテレビ番組の編成では放送出来ないというわけです。高度な1人芝居を、じっくり聴いていられないような人間が増えると、世の中がかさかさしてしまうでしょうし、言葉も話を構成しないで叫び声ばかりになってしまうでしょうなあ。
……半年近く、日に3度、自分の昔の『芝浜』のビデオなんかを見ながら声を出して稽古をしました。以前は頭の中で噺(はなし)を繰るだけで、口を開けての稽古なんて初めてだから、家族はもうピリピリでね。音も立てなかった。……」
■芸人の業(ごう)なのでしょうが、野球の長嶋さんのリハビリとも重なる執念を感じる話です。「引き際」というのは難しいようです。
……寸分の狂いもない芸で知られ、ただ一度の絶句で引退した文楽と、大病から復帰し、噺を間違えてもそれを笑いにつなげた志ん生。……
桂文楽、古今亭志ん生、その他にも数々の名人が居ましたが、上質の文化として伝承される可能性は無くなってしまっているような気がしますなあ。もう手遅れなのかも知れません。
……師匠の円生が死んだのは79年の9月3日。4日未明に死んだ上野動物園のパンダより。死亡記事が小さかった。今も落語ファンに語り継がれる痛恨事だ。……
■パンダを選んだ新聞社が、こんな記事を他人事のように書いているのも変ですが、もう30年前から落語はパンダよりも価値の無いものと思われていたのでしょうか?パンダは愛らしい生き物ですが、新聞が大騒ぎして取り上げるべき対象なのかどうか、パンダの写真を見たくて新聞を買うような人は、肝腎の記事は読まないような気もしますなあ。パンダは野生動物ですから、ただ生きているだけの存在です。落語界でも、「高座に座っているだけで可笑しい」というカリスマも存在しています。円生さんもそんな名人の1人だったはずなのですが……
……55年に円生に入門した時に「50年はやらなきゃ駄目だよ」と言われた。それから52年。十分にやったという自負がのぞく。……
■芸人がそんな「自負」を本当に感じてしまったら、御仕舞いです。芸に対する貪欲な向上心が無くなったら終わりでしょう。褒めるつもりの書き方ですが、ちょっと問題です。52年は確かに長い時間ですが、一回ごとが命懸けの芸ですから、貯金通帳の数字が増えるような具合に満足感や達成感が積み上がって行くことは無いでしょう。
……「弟子たちはまだまだ。それでもどうにかして、円生やあたしの名前を誰かに継がせなきゃいけませんしね」……
■これが一番大変な仕事でしょうなあ。林家正蔵、柳家小さん、大相撲の八百長疑惑に負けないくらいの怪しげな襲名が続いて、往年のファンが脱力して愛想を尽かしてしまったとも聞きますし、テレビの副業ばかりが有名になって本職が落語家だとは誰も知らないような人も居たりします。贅沢を言えば、テレビ局が良い芸人を育てようという心意気を持ってくれれば心強いのですが、芸を消費して芸人を消耗させて潰してしまうような扱いばかりが目立つような気がしますぞ。円楽さんが頑張って支えていた『笑点』という番組も、本来は寄せのオマケだった大喜利をメインにしてしまう奇策によって誕生した際物だったのが、何故か演芸番組として長寿を保ってしまったというのも皮肉な話です。5分少々で終ってしまう「芸」を週に1回だけ楽しんで、バラエティ番組の元祖みたいな大喜利を眺めている落語ファンというのも、寂しいですなあ。
------------------------------------------
■こちらのブログもよろしく
雲来末・風来末(うんらいまつふうらいまつ) テツガク的旅行記
五劫の切れ端(ごこうのきれはし)仏教の支流と源流のつまみ食い
------------------------------------------
チベット語になった『坊っちゃん』書評や関連記事
……『芝浜』を終えて幕が下りた後、しばらくぼおっとして、その時に決めたんです」
テレビでも「その瞬間」だけが、あちこちの報道番組で放送されていたようですが、最後の演題となった『芝浜』をきっちりと放送した局は無かったようです。最後のサゲだけを切り取って報道したところも有ったようですが、随分と残酷な編集だと思いました。40分を超える長い人情噺ですから、今のテレビ番組の編成では放送出来ないというわけです。高度な1人芝居を、じっくり聴いていられないような人間が増えると、世の中がかさかさしてしまうでしょうし、言葉も話を構成しないで叫び声ばかりになってしまうでしょうなあ。
……半年近く、日に3度、自分の昔の『芝浜』のビデオなんかを見ながら声を出して稽古をしました。以前は頭の中で噺(はなし)を繰るだけで、口を開けての稽古なんて初めてだから、家族はもうピリピリでね。音も立てなかった。……」
■芸人の業(ごう)なのでしょうが、野球の長嶋さんのリハビリとも重なる執念を感じる話です。「引き際」というのは難しいようです。
……寸分の狂いもない芸で知られ、ただ一度の絶句で引退した文楽と、大病から復帰し、噺を間違えてもそれを笑いにつなげた志ん生。……
桂文楽、古今亭志ん生、その他にも数々の名人が居ましたが、上質の文化として伝承される可能性は無くなってしまっているような気がしますなあ。もう手遅れなのかも知れません。
……師匠の円生が死んだのは79年の9月3日。4日未明に死んだ上野動物園のパンダより。死亡記事が小さかった。今も落語ファンに語り継がれる痛恨事だ。……
■パンダを選んだ新聞社が、こんな記事を他人事のように書いているのも変ですが、もう30年前から落語はパンダよりも価値の無いものと思われていたのでしょうか?パンダは愛らしい生き物ですが、新聞が大騒ぎして取り上げるべき対象なのかどうか、パンダの写真を見たくて新聞を買うような人は、肝腎の記事は読まないような気もしますなあ。パンダは野生動物ですから、ただ生きているだけの存在です。落語界でも、「高座に座っているだけで可笑しい」というカリスマも存在しています。円生さんもそんな名人の1人だったはずなのですが……
……55年に円生に入門した時に「50年はやらなきゃ駄目だよ」と言われた。それから52年。十分にやったという自負がのぞく。……
■芸人がそんな「自負」を本当に感じてしまったら、御仕舞いです。芸に対する貪欲な向上心が無くなったら終わりでしょう。褒めるつもりの書き方ですが、ちょっと問題です。52年は確かに長い時間ですが、一回ごとが命懸けの芸ですから、貯金通帳の数字が増えるような具合に満足感や達成感が積み上がって行くことは無いでしょう。
……「弟子たちはまだまだ。それでもどうにかして、円生やあたしの名前を誰かに継がせなきゃいけませんしね」……
■これが一番大変な仕事でしょうなあ。林家正蔵、柳家小さん、大相撲の八百長疑惑に負けないくらいの怪しげな襲名が続いて、往年のファンが脱力して愛想を尽かしてしまったとも聞きますし、テレビの副業ばかりが有名になって本職が落語家だとは誰も知らないような人も居たりします。贅沢を言えば、テレビ局が良い芸人を育てようという心意気を持ってくれれば心強いのですが、芸を消費して芸人を消耗させて潰してしまうような扱いばかりが目立つような気がしますぞ。円楽さんが頑張って支えていた『笑点』という番組も、本来は寄せのオマケだった大喜利をメインにしてしまう奇策によって誕生した際物だったのが、何故か演芸番組として長寿を保ってしまったというのも皮肉な話です。5分少々で終ってしまう「芸」を週に1回だけ楽しんで、バラエティ番組の元祖みたいな大喜利を眺めている落語ファンというのも、寂しいですなあ。
------------------------------------------
■こちらのブログもよろしく
雲来末・風来末(うんらいまつふうらいまつ) テツガク的旅行記
五劫の切れ端(ごこうのきれはし)仏教の支流と源流のつまみ食い
チベット語になった『坊っちゃん』―中国・青海省 草原に播かれた日本語の種山と溪谷社このアイテムの詳細を見る |
------------------------------------------
チベット語になった『坊っちゃん』書評や関連記事
■三遊亭円楽さんが、脳梗塞から復帰したものの、自分の芸に納得出来ないという理由で引退をしました。お疲れ様でした、と申し上げましょう。すっかり好々爺になってしまいましたが、全盛期には「星の王子さま」を自称していたのを覚えている方もおられることでしょう。テレビに演芸番組が溢れていた頃の話です。「漫才ブーム」なども有りましたが、演芸番組は芸能番組になってしまって二度と演芸番組には戻らないのが、時の流れなのでしょうなあ。
■ゲイノー人が並んで具にも付かない雑談と悪ふざけを繰り返すような、バラエティという名の番組を手を変え品を変えて放送しているテレビ局が、三遊亭円楽さんの「引退」を割りと大きく取り上げていたようです。元気な頃には日曜夕方の『笑点』の司会者として顔を出していた円楽さんでしたが、今回の引退に至るまでに本職の落語を一度も聴いた事が無い人が圧倒的に多かったのではないでしょうか?病気や引退の時だけ、歯の浮くような世事を並べる一方で、しっかりした演芸番組を次々と切り捨て続けたテレビ業界というのは、何とも面妖なところでありますなあ。
■確かに、笑いは世相を映して変化する物でしょうが、それが文化である限りは「古典」というものが有ります。東京や大阪に住んでいる人ならば、寄席に足を運んで千数百円で落語・漫才・手品・曲芸などを一通り楽しめるわけですが、それ以外の地域に住んでいる落語好きの日本人は、CDやテープなどで我慢しなければなりません。インターネット上にも「高座」が生まれていますが、コンピュータ画面で落語を楽しむというのは、味気ないようです。皆様のNHKはラジオ番組の枠に演芸を残してくれていますし、テレビにも『日本の話芸』という番組を有ります。ラジオは夜8時でテレビは早朝の放送ですから、想定される視聴者の生活パタンからその年齢も簡単に類推できます。残念ながら、言葉を学び磨く時期に当たる若者は「想定外」という事でしょうなあ。
■3月2日の朝日新聞に、円楽さんのインタヴュー記事が掲載されまして、その中にこんな言葉が有りました。
……あたしは幸運です。死んだわけでもないのに『天声人語』にまで取り上げていただいた」
記事の半分を占める引退の経緯をさらっと読み流していましたが、この『天声人語』の話に眼が釘付けになってしまいました。不祥事が続いたり、名指しであちこちから攻撃されている昨今の朝日新聞ですが、円楽さんが活躍していた頃には朝日新聞の一面コラム『天声人語』は大学受験生の必読記事として君臨していたのでしたなあ。円楽さんが「死んだわけでもないのに」と感慨深げに仰るように、歴史上の偉人や有名人が引用されるエッセイが多いので、こういう感想も当然なのです。円楽さんが引退を決意したのが2月25日で、その2週間前の『天声人語』に名前を取り上げて頂いていた身としては、「死んだわけでもないのに」の一言が胸に響きました。
■『天声人語』に拙著が取り上げられたのを大喜びしてくれた世代と、特段の感慨も抱かない世代との間には大きな溝が有ることを、改めて知ったような次第です。30代でも新聞を購読しない人が増えているいるそうですが、情報はネット上で集める!と言う人も多いとは思いますが、社会や世界の動きにはまったく興味が無い、と言う人が増えるのは恐ろしい気がしますなあ。新聞も間違う事は有りますが、民主主義国家の国民であれば、投票行動の根拠となる最低限度の情報は持っている必要が有るのではないでしょうか?ゲイノー人が県知事になった方が面白いのでしょうし、贔屓(ひいき)のスポーツ選手が国会議員になれば嬉しいと思う人も居るのでしょうが、そこは外交と内政を議論する「立法府」である事を再確認する必要は有るでしょうなあ。
■ゲイノー人が並んで具にも付かない雑談と悪ふざけを繰り返すような、バラエティという名の番組を手を変え品を変えて放送しているテレビ局が、三遊亭円楽さんの「引退」を割りと大きく取り上げていたようです。元気な頃には日曜夕方の『笑点』の司会者として顔を出していた円楽さんでしたが、今回の引退に至るまでに本職の落語を一度も聴いた事が無い人が圧倒的に多かったのではないでしょうか?病気や引退の時だけ、歯の浮くような世事を並べる一方で、しっかりした演芸番組を次々と切り捨て続けたテレビ業界というのは、何とも面妖なところでありますなあ。
■確かに、笑いは世相を映して変化する物でしょうが、それが文化である限りは「古典」というものが有ります。東京や大阪に住んでいる人ならば、寄席に足を運んで千数百円で落語・漫才・手品・曲芸などを一通り楽しめるわけですが、それ以外の地域に住んでいる落語好きの日本人は、CDやテープなどで我慢しなければなりません。インターネット上にも「高座」が生まれていますが、コンピュータ画面で落語を楽しむというのは、味気ないようです。皆様のNHKはラジオ番組の枠に演芸を残してくれていますし、テレビにも『日本の話芸』という番組を有ります。ラジオは夜8時でテレビは早朝の放送ですから、想定される視聴者の生活パタンからその年齢も簡単に類推できます。残念ながら、言葉を学び磨く時期に当たる若者は「想定外」という事でしょうなあ。
■3月2日の朝日新聞に、円楽さんのインタヴュー記事が掲載されまして、その中にこんな言葉が有りました。
……あたしは幸運です。死んだわけでもないのに『天声人語』にまで取り上げていただいた」
記事の半分を占める引退の経緯をさらっと読み流していましたが、この『天声人語』の話に眼が釘付けになってしまいました。不祥事が続いたり、名指しであちこちから攻撃されている昨今の朝日新聞ですが、円楽さんが活躍していた頃には朝日新聞の一面コラム『天声人語』は大学受験生の必読記事として君臨していたのでしたなあ。円楽さんが「死んだわけでもないのに」と感慨深げに仰るように、歴史上の偉人や有名人が引用されるエッセイが多いので、こういう感想も当然なのです。円楽さんが引退を決意したのが2月25日で、その2週間前の『天声人語』に名前を取り上げて頂いていた身としては、「死んだわけでもないのに」の一言が胸に響きました。
■『天声人語』に拙著が取り上げられたのを大喜びしてくれた世代と、特段の感慨も抱かない世代との間には大きな溝が有ることを、改めて知ったような次第です。30代でも新聞を購読しない人が増えているいるそうですが、情報はネット上で集める!と言う人も多いとは思いますが、社会や世界の動きにはまったく興味が無い、と言う人が増えるのは恐ろしい気がしますなあ。新聞も間違う事は有りますが、民主主義国家の国民であれば、投票行動の根拠となる最低限度の情報は持っている必要が有るのではないでしょうか?ゲイノー人が県知事になった方が面白いのでしょうし、贔屓(ひいき)のスポーツ選手が国会議員になれば嬉しいと思う人も居るのでしょうが、そこは外交と内政を議論する「立法府」である事を再確認する必要は有るでしょうなあ。