沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩352 日本という国 3

2012年03月23日 23時32分41秒 | 政治論
 彼らの言う地理的優位性とは軍事的優位性のことには違いないが、これは専守防衛の優位性ではなく飽くまで攻撃的優位性であり、攻撃目標は北の核施設並び軍事施設にほかならない。場合によっては平壌もこれに入る。ところでこの攻撃的展望が国際法も憲法9条にも違背することは勿論だが、沖縄に対する最大の欺瞞であることも言うを待たない。沖縄の非戦意思はすでに歴史認識上の確定的到達思想に昇華しており、この国が軍事的強要を実行したとき最終手段によって実現する方途は極めて限定的なことがおのずと了解されよう。「座り込み」と実力行使の力関係はさながら赤子の手をひねるようなものだが、コザ騒動の記憶は権力者にあっても少なからぬ脅威として残存しているに違いなく、結局アメリカのご機嫌を伺いながら「優柔不断」という外交怠慢放縦演技によって生き残りを図るということにしかならないのだろう。この国の軍国主義者と沖縄征服勘違い輩が己の愚と恥と無知を晒しながら「沖縄説得」に血道を上げる昨今、「本来的構造的差別」の精神によっては到底琉球の核心に触れることはないということを早々に納得すべきだということだ。皇民化教育によってマインドコントロールに成功し「一億総玉砕」の先陣をきらせたまでは植民奴隷制天皇崇拝の実を挙げたが、「敗戦」は「沖縄戦」の、日本国内における境遇につきその特殊性を際立たせ、ファシズム帝国日本のあらゆる被害人民(アジアの民)と同じ禍根として沖縄県民の深奥に達したのだ。問題はこのことにあって、ここに、県民に顕著な「本来的差別」意識の所以があり、同時に、日米安保によって、国防費節約と経済復興を果たした、と勘違いした本土の日本人とは無関係な沖縄人がいる。事実上、戦後日本とアメリカ被占領下の沖縄はその歩みを異にし、一方が徐々に再軍備方向へ傾斜していくとき沖縄はいよいよ確たる非戦意思に凝結していったといえる。其の差は結局「一億総玉砕」の現実的担保を担って、本来決して人民的に馴致され得ない国家に関する殉国意思の実現という特殊な体験に否応なく駆り出された、一般市民的レベル以上の又は以下の数限りない戦争惨禍事例において特化せざるを得なかったということである。この沖縄における非戦意思の自然醸成傾向は「フクシマ」だけがそうであった原発全面廃止意思とおなじものなのだ。かくして沖縄は現日本国家の意思としてある再軍備核兵器保有の方向性とは真っ向から対立する唯一の県となった。大戦で「捨石」とされた沖縄が現代日本の軍事的思惑のなかでいかなる位置を占めるかを考えるとき、我々は自身の「非戦意思」の絶対性によって国家意思は淘汰されるという確信の中に「座り込」まねばならない。それは国家の捨石になった過去を繰返す愚を是が非でも回避するためである。その繰り返しは人間として有り得ないし、多くの「ヤマトウ」たる日本人どもに彼らの祖先の過誤を繰返させないためでもある。これをごまかしてはならない。「沖縄戦」の体験によって沖縄は、この国の「捨石」にも「最前線基地」にも「欺瞞的抑止力」にも決別すべく自己を形成した本質において沖縄なのだ。(中断)