歴史とは史料だ、といった歴史家がいたが、歴史とは現代史だという歴史家もいた。ヘーゲルによれば歴史は哲学的課題そのものだとするが、近代的合理史観からすれば結局「仮定」ないし「暫定的処理」において歴史を抽象する以外にはなんら学術的手法がないものとされるらしい。歴史学の限界ともいえる。自然科学がその発達の歴史においてしばしばコペルニクス的転回をみせていることは周知の通りである。ガリレオの地動説が宗教裁判によって反動的に否定されたのは、およそ、学術的真理の有する絶対性が、人知の範囲で許容されることの困難さを示しているにすぎず、「権威」「神」「権力」のいかなる意向にも、「人間」が、「真理」を盾に闘う必要性を持たないことを了解すれば足りることだ。確かに「南京事件」は様々な証言、目撃談、等において正反対な極論を生み出し、史実的リアリテイに止めを刺す決定的な証拠を示し得ていない。曰く、ヒロシマナガサキ原爆の30万死亡数に合わせたもの、曰く、ナチス犯罪と同等な「犯罪性」を付与するための連合国創作、など、今にして言えばさながら「伝説と奇談」とでもいうべき様相を呈した議論が沸き起こった。河村某があるいは都知事が「南京事件」といわれる「虐殺事件」は事実上なかったのではないか、という疑問を呈したのは勿論理由のないことではない。しかし何故「南京事件」だけが彼らの指摘として挙げられたのか。何故「自虐史観」と目される東京裁判本体の批判に付随する論難としてでないのか。名古屋市長が友好都市南京使節団にこういったのは、相手が中国だから言ったのである。都知事も同断だ。何故彼らは中国の国情を度外視していわずもがなの歴史的事件を特定的に言い募ったのか、彼らの中の中国に対する「仮想敵国」視がそういわせたのだ。そして特定国を「敵国」視する背景に彼らの国防上の思い入れがある。しかし少しだけ退いて見ると、市長の、史実上の加害国意識と同時に被害事実への否定的解消意図が垣間見える。だが結果は中国ないし南京市の尋常ならぬ反感を買っただけだった。我々は、仮に彼らが、巷間しばしば散見する学術的見解のひとつを示しただけだと言い張っても、そこに立ち現れる旧日本軍またはおよそ軍事的行為への、是認ないし積極的肯定の姿勢を見ないわけには行かない。勿論彼らの大半は「軍国主義」を容認しているし、その再現を何気に待望している、と思われる(こうした思潮のアリバイはすでにどこにもない)。沖縄県知事が首里城下32軍司令部壕跡の説明文案から「慰安婦」と「日本軍による住民虐殺」のくだりを削除した行為は、明らかに、「住民を守らない」と言われた帝国軍隊の今更ながらの擁護という意味にしかならない。(時期はどうか知らぬが知事の政府関係との密談が何を変えていくか注視すべきだ)ほかならぬ沖縄県人の仲井真氏が断固として削除方針を変えないその姿勢には並々ならぬものを感じる。沖縄振興策の見返りが史実改竄の方向へ、つまりは教育文化言論への政治介入という実質へ向かったとしかいえない。この知事の、あるいは地方権力者の露骨化してきた国家翼賛傾向は警戒すべき事態と捉える必要がある。大阪の独裁者が大向こうをうならせ始めてからにわかにこうした傾向が顕著になってきた。いわば時宜を得たナショナリズムがもぐらたたきのごとくそっちこっちに意匠を違えて出現する気配である。(中断)